Firefox無罪?とHPPCでのWindows7リカバリ顛末記+α。

Firefoxがshockwaveプラグイン関係で激重になるのでChromeに乗り換えたと,昨日書きました。
しかし,Chromeに乗り換えてもPCを使ううちブラウザ関係だけでなくあらゆる動作が激重になり,例えばTerapadで書いたテキストドキュメントを名前を付けて保存するのに10分もかかったり,しまいにはexplorer.exe(エクスプローラーといってもIEの方じゃなくて!)がクラッシュするとか末期的なので,これはshockwaveプラグイン関係でブラウザが重くなっているだけじゃない,Windows自体に何か問題があるのではないか,と思うようになりました。
じゃあ,ということで,まず,Windows7の標準機能である「システムの復元」で動作が激重になりはじめる前あたりの状態に戻してみました。
でも,駄目でした。
ぐぐってみたら,「デフラグ」や「ディスクのクリーンアップ」をするといいかも,ということでしたが,デフラグはスケジューリングして定期的に実施していたので,「ディスクのクリーンアップ」を試してみたら,10Gくらいゴミをお掃除できたので,どうかな~と思ってみましたが,解決には至りませんでした。
それじゃあもう,Windows再インストールするか(Windows7+出荷時おまけソフトウェアのメディアは手元にある),と思い,PCのメーカーであるHPのサイトを検索してみると,どうも,HPのPCには,システムリカバリの機能がついているというじゃないですか!
HP PC - HP システムリカバリ の実行 (Windows 7) | HP®カスタマーサポート
私のHPPCには,「Recovery Manager」はインストールされていなかったので,「Windows7デスクトップ画面からのリカバリ」はできませんでしたが,システムブート中にF11キーを連打してリカバリープログラムを走らせることができそうなので,まずはマイドキュメント等個人的なファイルを外付けHDにコピーしてバックアップを取った上で,試してみました。
1回目は,最後の設定を行っています・・・的なダイアログが出るところまでは行ったものの,そこで延々と止まってしまい,しかもHDへのアクセスランプも点かないので,こりゃどこかで引っかかって駄目になってるわ,と思い,電源長押しで強制終了して,再度リカバリープログラムを実行することになりました。
2回目は,リカバリープロセスの途中で,インターネット接続(wifi)を設定するポイントがあるのですが,そこで自動的に接続するというオプションのチェックを外してみたところ,リカバリープロセスは無事終了し,PCは工場出荷時の状態に戻りました。
でもここからが長かった。
だって,工場出荷時の状態=Windows7 SP1だからさ,Windowsアップデートをかけないと,でしょ。
更新を確認,だけで日が暮れてしまうのではないかと恐る恐るやってみたら,思ったよりもあっさりと,209個の重要な更新プログラムがあります,と応答が返ってきた。
まーその209個をダウンロードしてインストールするのに延々と時間がかかるのですが,209個のうちどこまで進んでいる,というのが見えるのだけはよかったです。
Windowsアップデートを長らくしていなかったら,更新を確認するだけで一日仕事になったりする場合があるので(笑)
で,Windowsが”最新の状態”になったら今度はセキュリティソフトを入れて,各種アプリケーションを入れよう,としたところでハマってしまったのです。
lionusはNTT西日本のフレッツユーザーでありまして,NTT西日本フレッツは,1ユーザにつき1台まで「セキュリティ対策ツール」を利用可能なのです。要するにセキュリティソフトをオンラインで利用できるということです。
これをインストールせねばということで,NTT西のサイトにアクセスし,セットアップファイルをダウンロードしようとしたら,何故かnotfound的な対応が。
これ結構ドツボなポイントだと思いました。
つまり,自宅を無線LAN化している場合,無線LAN経由ではセットアップファイルが”見えない”のです。
NTT西レンタルのルータに有線でPCをつないでいないと,ダウンロードできない仕様になっているようなのです。
そうかそうか,とLANケーブルを持ち出しつないで,セットアップファイルをダウンロードして,「セキュリティ対策ツール」を再インストールしようとしたら,そのウィザードの中でインターネットの接続を設定するとかいうのがあったので,素直にそれに従いました。
NTTフレッツ関連のユーザIDとかパスワード的なものを入力して,順調に進んでいったのですが,プロバイダのIDとパスワードを入れるところで,頓挫してしまいました。
20年近く慣れ親しんだniftyのIDと,さっきまでwebmailを見るのに使っていたユーザパスワードを入れたところ,サーバにアクセスできませんとかで蹴られてしまうのです。
仕方がないので,そのステップを中止したのですが,とりあえずNTT西謹製の「セキュリティ対策ツール」は無事インストールできたようでした。
だがしかし!
インターネットに接続できなくなってしまったのです。
システムリカバリしたHPPCだけでなく,さっきまでフツーに無線接続できていたレッツノート(Window7)も,iPod touchも,ネットに接続できなくなっていました。
あちゃー。
何てこったい・・・と思いつつ,ついにNTT西のサポートに電話しました。
おぼこい若い女の子の声で,電話が込み合っていてつながりません,このままお待ちいただくか時間を置いてかけなおしてください,的な自動応答を繰り返し40分ほど聞いて,サポートデスクに通じました。
NTT西レンタルのルータ設定をブラウザから開く方法をご教示いただき,試してみましたが,どうもルータの中に入っているプロバイダ=niftyの接続設定がおかしくなっているようだ,ということで,niftyに聞いてねということになりました。
niftyのヘルプデスクに電話したところ,自動応答振り分け質問が何段階かありましたが,こちらはすっと人間につながりました。
そこでのやりとりからすると,自分は電話するまでに9回,パスワードを間違え続けているというログが残っていたようです。
webmailやら各種サービスを使うのに普段から何度も入力しているパスワード,間違い続けているって,どういうこと・・・?
何でなんでしょうねえと何だか間抜けなやり取りを経た上で,まあとりあえずNTT謹製のルータの設定を直接いじりましょうか,ということになりました。
ブラウザから再度,ルータ設定にアクセスして,件のパスワードを再入力してみたところ,問題解決しました。
うーむ。
よく分からん。
9回続けて打ち間違いするっていうことはあまり考えにくい。
NTT西謹製のセットアッププログラムが何か影響していた可能性があるかもです。
つまり,プロバイダのパスワード入力→送信時に何か余計な情報(文字列?)が付加されていた可能性です。
まー自分も人間で完璧ではありませんので,何ともいえませんが。
まあとりあえず,NTT西謹製の「セキュリティ対策ツール」もインストールできて,かつ,インターネット接続も回復したので,その後は,必要なアプリケーションをコツコツと再インストールして何とか自分環境を回復することができました。

ああ疲れた。1日仕事,いや8時間以上は費やしているので,それよりもっとですね。

ということで,愛するFirefoxはどうも無罪であった可能性高く,この記事もFF使って書いております。なお,FFは64bit版にしております(32bit版よりもShockwaveプラグインクラッシュしにくいらしい?)。
やっぱ愛してるよFF。

Firefoxさんさようなら,chormeさんこんにちわ。

Firefoxを長らく使ってきましたが,flashshockwaveに関連して固まるだけでなく,Windows全体を道連れにして固まってしまうことが連発されたため,さよならすることにしました。
次の相棒としては,IE・・・でもいいかもですが,色々な拡張機能を使ってみたいので,chomeを試してみることにしました。
NetscapeNavigator時代からの思い出があるので,忸怩たる思いですが,ウェブページを見ているうちに次第に応答しなくなり,ブラウザだけでなくシステム全体が固まってしまうのはマジ困るので,お別れすることにしました。
さようなら,今までお世話になりました。でも愛してたよ。FF。

監査人監査論―会計士・監査役監査と監査責任論を中心として―

監査人監査論‐会計士・監査役監査と監査責任論を中心として‐

監査人監査論‐会計士・監査役監査と監査責任論を中心として‐

読むのに思ったより骨が折れました。
けれども,面白かったです。
ベテラン会計士による,監査基準等の解説が最初にあって,続いて会計不正関係の判例の検討がなされています。
大和銀行NY支店事件など,同じ事件でも弁護士や法学者による判例検討とは,また一味違う内容と拝見しました。
この判決では何かこのへんまあいいか的に流されてるけれど,会計実務からしたらちょっとおかしいよね!みたいな突っ込みだな~というところがいくつかあって面白かったです。
以前,『命燃やして―山一監査責任を巡る10年の軌跡』を読んだときだったか,会計監査におけるリスク・アプローチなる言葉を知ったのですが,ちょっとぐぐってもよく分かりませんでした。
本書では最初のあたりでリスク・アプローチについて解説されていて,それを読んでもやはり実務を知らないせいかまだまだピンときていないのですが,米国から導入した,効率的効果的に会計監査ができるよ!のリスク・アプローチについてのエピソードのところで笑ってしまったので,少々長くなりますが,引用します。

pp.23-24
リスク・アプローチの考え方は,虚偽の表示が行われる可能性の要因に着目し,その評価を通じて実施する監査手続やその実施の時期および範囲を決定することにより,より効果的でかつ効率的な監査を実現しようとするものである。それは無用とされる監査手続を排除もしくは省略することができるという効果をもたらすことになる。
しかし,この思考体系には,逆の意味で監査リスクを伴っていることも忘れてはならない。たとえば,日本の監査法人の若手会計士が,代表してアメリカの研修(大手会計事務所による世界的規模で開催される研修制度)に参加して,帰国し,日本で,その研修の結果を披露(国内研修会)することになった。監査リスクの手法を導入したときには(提示された研修教材の中で),仮払金と未払費用(未払保険料,未払家賃などが含まれている)は,金額が小さいから,監査リスクが低いと判断して,「監査範囲から外してよい」という説明であった。それは「潜在的に存在する監査リスク」を無視したとんでもない判断である。
仮払金の内訳をみて,金額が小さいから外す,そのような判断は,職業専門家として会計士は判断すべきではない。仮払金の中に,弁護士費用が処理されていたならば,何らかの訴訟が行われているものとして,追加監査手続を実施すべきなのである。つまり,重要な監査の入り口をみつけたと考えるべきである。また,未払費用であるが,一般的には監査リスクが低い勘定科目であるが,提示されたものが未払保険料(火災保険料)と未払家賃であったから問題なのである。日本において,保険契約で立替払いは認められていない。もし,保険代理店が立て替えて払っていて,保険契約は継続しているとして,保険料さえ払っていなかったのか,また,家賃については,日本の慣行では,当月分の家賃は,前日末日までに支払うことになっている。その家賃が未払いであるということは,それだけ「資金繰りが苦しいのか」と判断をすべきで,それが職業専門家としての経験であり,懐疑心をもって判断し,追加監査手続が必要になる事例なのである。
このようなリスク・アプローチの考え方は,虚偽の表示が行われる可能性の要因に着目し,その評価を通じて実施する監査手続やその実施の時期および範囲を決定することにより,より効果的でかつ効率的な監査を実現しようとするものである。リスク・アプローチに基づいて監査を実施するためには,監査人による「各リスクの評価」が決定的に重要になる。そのためには,景気の動向,企業が属する産業の状況,企業の社会的信用,企業の事業内容,経営者の経営方針や理念,情報技術の利用状況,事業組織や人的構成,経営者や従業員の資質,内部統制の機能,その他経営活動に関わる情報を入手し,評価することが求められる。

勘定科目と金額の大きさだけ表面的にみて,本質的なところをみてないアチャーな例だよね,ということです。

この他,監査法人の設置が認められた経緯*1など,あーなるほどなー*2と,興味深かったです。

*1:事務所単位だと,特定の監査契約報酬に収入の多くを依存するため,監査対象に対する独立性が確保されない=お得意先の顔色をうかがって適切な監査ができない可能性,など。

*2:自分も,ちょっと前に担当した社労士調査データ分析で,顧問先企業に物言えるためには収入の分散=一定以上の顧問契約とか多角化等が必要,と考察したことがある。

ドイツリスク 「夢見る政治」が引き起こす混乱

ドイツリスク 「夢見る政治」が引き起こす混乱 (光文社新書)

ドイツリスク 「夢見る政治」が引き起こす混乱 (光文社新書)

ナチスの蛮行などがあるにせよ,一般的にドイツが嫌いという日本人は多数派ではないと思います。日独同盟などもあったし,少なくともドイツ人が日本に対して(一般的に)ネガティブな印象を持っているとはあまり思われないのではないでしょうか。
自分も,バッハとかすごいし,法律とか医学とかドイツからもってきているものが沢山あるし,お世話になりました的な感情はあっても,ネガティブな印象はありませんでした。
しかし,ドイツ人は日本人が思うほど日本のことをよくは思ってませんよ~ということが本書を読むとよく分かります。
著者は読売新聞のベルリン特派員を務め,現在編集委員の方で,ドイツ現地メディアやドイツの知識人等へのインタビューを通じて,ドイツってどういう国なのかということを独特の視点から記述しておられ興味深かったです。
タイトルにもなっている「夢見る」とは,本書では,ロマン主義的性向のことを指しているようです。
このドイツのロマン主義的性向と観念的に行動する傾向が結びついた結果,ドイツに,ひいてはヨーロッパ全体に不安定要因をもたらすのではないか,と著者は考察しています。

pp.181-182
歴史学者ヴィンクラーが,「シュビーゲル」誌(2014年4月14日号)に興味深いエッセイを書いている。
1920年年代のドイツでは,ドイツとロシアは気性が似通っている,という過度の思い込みが広がっていた。そのだしに使われたのがドストエフスキーだったが,トーマス・マンも含め知識人が魅了されたのは,ドストエフスキーの持つ,西欧の皮相的な合理主義に背を向けた姿勢だった。この西と東の思想闘争においてドイツがどこに位置しなければならなかったか,というと,東の側だった」
「ヴァイマール共和国時代は右派の政治家,軍人,知識人は,内政においては反共主義を掲げていたが,ソ連との協力関係強化に努めた。1925年に,後のナチ政権宣伝省ヨーゼフ・ゲッペルスは,ユダヤ的な国際主義を克服し,一国社会主義路線に転換したソ連に,『西欧の悪魔的な誘惑と腐敗に対抗するための盟友』の姿を見たのだった。」
プーチンは,同性愛支持プロパガンダ,フェミニズム,放蕩と戦う一方で,伝統的な家族形態と伝統的価値を支持している。こうしたすべてのことがキリスト教原理主義者や米国の右派の喝采を浴びている。かつてプロレタリア国際主義が成し遂げたことを,今やプーチンの保守的反近代主義が達成しているのだろう。まさに弁証法的転換であり,プーチンは今やヨーロッパの,それどころか世界の反動勢力のパトロンとなったのだ」

トランプ大統領がプーチンスキーな印象を受けるのも,うなづける・・・

pp.238-239
18世紀後半以来の「ロマン主義」との連続性を前提とするならば,緑の党や反原発環境保護運動にも,開明的な「西側世界」に反旗を翻すような非合理的な衝動,反科学主義,反進歩主義が宿っている,と見るのが適当だろう。
ロマン主義と現在のドイツを結びつけるとき,このドイツ人の自然との関わり合いの連続性という視点と,もう一つ,ドイツ人が認識し行動するときの観念性が継続している,と見る視点がある。それはドイツ人の政治下手,歴史認識における過度の倫理化を説明する視点でもある。
この二つの方向性がどう関連するのかは難しい問いだが,「自然=感性=非合理主義」と「人工=理性=合理主義」が対概念になることを前提とすれば,自然を理想視するドイツ人の魂のあり方は,必然的に理性より感性を重んじる「夢見る人」の性向,すなわち,経験論的に情報を集めて冷静に分析するよりも,非合理的情動に依拠して行動を急ぐ姿勢につながる,と説明することができようか。

「開明的な「西側世界」に反旗を翻すような非合理的な衝動,反科学主義,反進歩主義」は東方=(マッチョな価値観をもつプーチンが率いている)ロシアおよび,中国への親近感と接近をもたらしている,ということだそうです。
ロシアはともかく,日本に直接関係がありそうな中国のドイツへの接近については,以下の点をよく踏まえておくことが必要でしょうね。

p.218
繰り返すが,ドイツに屈服とも言える歴史認識を強いたのは,同国の過去の戦争犯罪の中心がホロコーストという,何人も肯定できない絶対悪,人道に対する罪だったからである。国際社会でまっとうな地位を回復するためにはドイツは謝罪するしかなかった。

p.219
一方で,歴史認識に関しドイツ知識人が抱く屈折した心理が存在する。第2次世界大戦後,ナチ・ドイツによる蛮行に対する国際社会の厳しい非難はドイツ知識人を苦しめたから,その心理的補償を得るには,「過去の克服」を徹底してそれを誇る,といった屈折した形をとった面があるのではないか。ドイツ語に「罪を誇る」(Schuldstolz)という言葉があるが,戦争に伴うすべてをドイツの責任として受け入れて謝罪することを続けるうちに,ドイツ人は,逆説的だが,過去の克服に関して,倫理的な高みを獲得したと信じ込むようになった。いわば「贖罪のイデオロギー化」が起こったのである。
そこに,日本が過去の正当化に拘泥することを倫理的に批判する,少なくとも主観的な優越性が生まれた。ドイツ人に対し,ドイツの過去克服の歩みが世界の模範であり,日本は邪悪である,と繰り返し語りかけることは,屈折した優越感をくすぐる働きをする。そこには,ナチズムの過去を糾弾され続けてきたドイツ人が,「道徳的に自分より劣った日本人」を発見して,バランスを回復する精神のメカニズムがあるのではないか。それは,素直にナショナルな感情を表出することをタブー視されてきたドイツ人がたどり着いた,屈折したナショナリズムの表現なのかもしれない。

死体は今日も泣いている 日本の「死因」はウソだらけ

死体は今日も泣いている?日本の「死因」はウソだらけ? (光文社新書)

死体は今日も泣いている?日本の「死因」はウソだらけ? (光文社新書)

図書館の書架でたまたま見かけ,以前友人のブログ記事に取り上げられていたのを思い出して,読んでみました。
法医学者が日本の異状死の取り扱いが先進諸国では例外的に”ゆるすぎる”*1ことを指摘(告発)している本なのですが,それはそのまま,日本は「なんちゃって法治国家」である,という痛烈な批判につながっていることが印象的でした。
長くなりますが,以下引用します。

  • 江戸時代からの「自白文化」

pp.150―151
日本の死因究明制度は,先進諸国と比べて非常にプリミティブ,かつ複雑です。その源をたどると,戦後どころか,江戸時代にまでさかのぼります。
江戸時代,死因の究明は中国古来の方法をまねて行われていました。すなわち,捜査は周辺の関係者や被疑者の供述を元に行われ,遺体は解剖などせず外表検査をするだけ。重要なのは自白であり,外表検査は供述が嘘か本当かを見抜き,自白を得るための手段という位置づけです。そして,自白が得られたら衆人環境の中で罰を与え,ほかの人が同様の罪を犯さないように見せしめにしたのです。
つまり,科学的な事実が先にあるのではなく,「犯人はこいつに違いない」というおかみの見立てが先にあって,それに沿って捜査が進められ,一見科学的らしく見えるようなことは,それを補完するためだけに使われたわけです。
明治になって,外国の脅威にさらされた日本は,近代的法治国家になることを目指して,西洋諸国から民法や刑法を輸入しました。その際に,のちに東京大学法医学教室の初代教授となる片山國嘉が,明治天皇の勅命を受けてドイツとオーストリアに留学し,日本に司法解剖の制度を導入しました。しかし,解剖に対する社会の無理解と法医学者の養成不足,実施可能な解剖数の制限から,死因がわからなければとりあえず司法解剖するヨーロッパのような制度とはならず,警察が犯罪性があるか疑う場合のみ司法解剖するという,現在まで続く異常な運営方法になったのです。

p.151
そもそも中国,あるいは江戸時代の日本の犯罪捜査の基本,自白第一主義のベースには,儒教の基本思想の一つ「徳治主義」があると私は思っています。

pp.151-152
おかみは徳が高くいつも正しいのだから,おかみが「おまえが犯人だ」と言えば,その人が犯人であることに間違いはない。犯人も,本来の性は善なのだから,おかみに諭されれば,罪を悔いて自分のやったことをすっかり白状するはずだという論理です。それに対して西洋からもたらされた「法治主義」とは,法によって国を治めることであり,性悪説に基づいています。為政者も嘘をつくことがあるし,間違えることもある。人民も嘘をつくし,間違えることもある。だから,すべての人に平等な法というルールを決めておきましょう,という考え方です。
「徳治・法治」「性善説性悪説」と並べて書くと,徳治や性善説の方が人に優しく,よいことのように見えます。しかし,そうでしょうか?本当に恐いのは,人の徳や善意という曖昧で恣意的なものをよしとし,それを建て前にして行動することではないでしょうか。ましてや,法治国家における刑事司法で,性善説など本来通用しないはずなのですが,日本は本当におかしな国です。日本は法治国家といいますが,法律を海外から輸入し猿まねをしただけのなんちゃって法治国家で,まさに「仏作って魂入れず」なのです。

  • 間違いがあってもフィードバックされない

p.153
日本では,理念なく行き当たりばったりに死因究明方法を独自に改変させてきた結果,「解剖や薬物検査を含む医学的な検査を最初に行ってから犯罪性の判断をする」という先進諸国のスタンダードとはかけ離れた死因究明方法を構築してしまい,迷宮から抜け出せなくなっているのです。

*1:警察による初動捜査で犯罪性なしと判断されたら,それ以上追及されない。そもそも,警察官は医学的に死因を判断する専門家ではないので,例えば,もしかすると自殺を装った殺人が行われていても見過ごされているケースがどのくらいあるのだろうか,と本書を読むとガクブル。

気づいたら先頭に立っていた日本経済

新着図書の棚で見かけて,タイトルにまんまと釣られて読んでみました。
ちなみに「先頭」というのは,”第1位”という意味ではなく,長期停滞する経済の”トップランナー(先行者)”という意味です。あんまり嬉しくないですね(笑)。
さて本書の内容は,そこまで楽観できるものかしら?と思いつつも,「遊民経済学」という独特のスタンスから放たれる言葉は,やわらか頭な感じです。
真剣に(熱心に)遊ぶということの価値と効用について改めて考えさせられました。
まあ肩肘張らずに気楽に読めばいいと思います。

p.16
そろそろ第3次産業を,楽しめるものとそうでないものに分類してみるといいのかもしれない。お役所仕事のように,しぶしぶ嫌々やらなきゃいけないサービス業を今までどおり第3次産業と呼び,お客さんがニコニコしているものを第4次産業と呼ぶことにする。そしてツーリズム(観光産業)やエンタメ関係,あるいはギャンブル産業なんかはこちらに分類することにする。この第4次産業を拡大していくと,経済活動のフロンティアが広がることになり,成長分野になっていくのではないだろうか。

p.29
思うにGDPという尺度は,一人あたりが1万5000ドルくらいまでは有効な指標であるけれども,3万ドルを超えたあたりから機能しにくくなる。3万ドルを超えて先進国になってくると,その国が目指す「豊かさ」は一様なものではなくなる。あくまでも所得の増大を目指すのか,それとも生活の質を求めるのか,国全体のインフラを重視するのか,あるいは環境との調和や個人の自由を求めるのか。それらは人生観や価値観によるものであり,それぞれの国民が選択すべき問題である。
特に日本の場合は,「高所得国の罠」といったら語弊があるけれども,20年くらい前から「さらなる豊かさを求める方向性」を定義できなくて困っているようなところがある。本当はそれがないわけではないのだが,もともとが貧乏性な国民なので,ついつい「おカネに換算できる価値」にこだわって苦労しているのかもしれない。

大学経営論 大学が倒産する時代の経営と会計

大学経営論―大学が倒産する時代の経営と会計

大学経営論―大学が倒産する時代の経営と会計

以前,『不正会計と経営者責任―粉飾決算に追いこまれる経営者―』を読み,公認会計士の職業倫理のあり方について論じておられるところにちょっと気になるところがあったので,この守屋俊晴先生のご本を他にも読んでみたくなり,何冊か借り出してみたうちの1つです。
本書の前半=第1部は,今どきの若者は~,少子化で大学の経営環境が~,等について色々な資料を引きながらガンガン語っておられます。
まあそこは他でも見られる言説なのですが,第2部の私立大学と国公立大学それぞれについての会計と経営についての解説は,まとまった形で読んだことがなかったので,大変面白かったです。
年末にお友達=地方国立大学に教員としてお勤め,とお話しているときに,国からの交付金が年々減らされつつあって,待遇が年々悪くなるし,これからもよくなる見通しはまずない・・・という話題になったので,(交付金が年々減っていくとしても,大学運営するお金は変わらずかかるわけだから)ついには学費を上げなくてはいけなくなるんじゃないですかね?そいうことは可能なんですかね?となったのですが,よく分からないねという感じで終わってしまったように記憶しています。
そこのあたり,ええっと思わる記述がありました。

p.237
国公立大学の授業料は施設(造営物)の使用料相当額とされている(昭和23年8月18日 自治省自治課長通知)。そのために,大学事業の主要な経費である人件費を学生などが納付する授業料・入学金などで回収(費用補償)することは考慮されていない。それを負担してきたのが国や地方(一般会計)である。新しい制度の下では,これらの経費(運営費)を補助するものを運営費交付金と称している。

と,いうことは・・・運営費交付金が減った分,学費を上げて人件費などに回す,ということは基本的にはしない(できない?)ということみたいですね・・・
運営費交付金が減る一方で増えない→最近あちこちで話題になっていた,人件費削るよ!(退職してもそのポストはもう新規採用しないよ!任期付だけ雇うよ!等)になるのは当然の帰結だわ,と納得しました。
この他にも,私立大学と国公立大学会計基準は異なっていて,作られる計算書類も全然違うので,単純に比較対象できないということもよく分かりました。
ざっくり自分的にまとめると,
私立大学は,株式会社のように利益を出して株主に分配するってことは目指していないけれども,基本金=土地や建物,当座のお金など大学事業を行うための基本的財産は自前で調達して,国からは補助金をもらうとしても(平均して支出の11%くらいみたいです),赤字が出て金詰りにならないよう自助努力で回していかなければならないよ,ということです。
企業会計とは色々相違点はあるけれども,元手は自分の責任で調達して,事業継続できるよう何とか回していかねばならないところは,同じだな,と思いました。
一方,国公立大学は,元手(=土地建物その他大学事業をやるのに必要なもの)は国もしくは地方自治体から出資してもらっているので,「資本金」といっても企業会計の「資本金」とは全く異なる性質であること。そして,事業を続けていくのに必要な支出の約半分が運営費交付金によるものであり,独法化したとはいえども,まったくの国・地方自治体だのみで建前=独法化して自律自主的にやっていく,と現実には大きな乖離があることが分かりました。