精神分析から見た成人の自閉スペクトラム

精神分析」と「自閉スペクトラム」という組み合わせが,自分にとってはとても意外だったので,読んでみました。
なお本書ではADHDなど「発達障害」にも範囲を広げて事例等が所収されています。
なぜ,「精神分析」と「自閉スペクトラム」という組み合わせが意外かというと,

P.15
精神分析はまさしく間主観的/相互主体的やり取りができ,その世界に参入しているクライアントを想定して発達しており,そのような間主観性/相互主体性の世界に参入していないクライアントを十分想定してこなかったということである。

ということで,精神分析的やりとりにとてもじゃないけど自閉スペクトラム的な人は誘い込めないのではないかと思っていたからです。
実際,確かに,そういうやりとりに誘い込むのはなかなか困難である(フツーの精神分析心理療法では手ごたえがないとか,なかなか進展しないとかいう感じであらわれる)ことが示されます。
けれども,そういうやりとりができない人をそういうゲームに何とかして誘い込むこと自体に意義があるじゃないか!というのが,ざっくりいって本書の主張のように読みました。

ところで,本書「第Ⅲ部 成人例での臨床試験」の「第10章 1990年代前半の診断の混乱について」では幼女連続殺人事件の宮崎勤の精神鑑定についてふれていて,あれは「反応性精神病」でも「解離状態(多重人格)」でもなく,なんとなーくなんとなーく「高機能広汎性発達障害が関わる反社会的行動」だったのではないかと言いたいかのように読めました。

裁判の非情と人情

裁判の非情と人情 (岩波新書)

裁判の非情と人情 (岩波新書)

元裁判官で現在は法科大学院教授をされている方が書かれた本です。元は雑誌コラムだったそうで,気楽に楽しく読める内容でした。
この2月から3月にかけて,ひとつの裁判員裁判を連続して傍聴してみたlionusにとっては,うんうん,事実ならず「裁判は小説よりも奇なり」だよね,と読みました。
色々面白かったのですが,中でもへぇと思ったのが:

p.58難しい数学や物理が出てくる事件もなかにはある。普通の裁判官の理解をはるかに超える事件である。
私が控訴審で主任として担当した新四ツ木橋事件では,座屈という現象について,土木工学上の最高レベルの知識が必要であり,その理解には,博士論文のテーマに匹敵する最高の能力が必要であるといわれた。

ええー裁判官は”文科系”だから数式とか物理学とかわかんないよ~どーしよーかと思ったが・・・

p.59
しかし,記録を読み込んでいくと,不思議と霧の中に一筋の水路が見えてきた。刑事裁判で求められているのは,技術的な判断そのものではなく,法律的な判断である。法律家に求められているのは,物理的に難解な現象の仕組みの理解ではなく,そのような現象が起こることが当時の科学の水準で予測できたかなのである。法律的には予見できたかということである。これは立派な法律問題であり,裁判官にもできることだ。

「予見できたか」の法律的判断・・・は何となく分かるような気がするけれども,

p.60 裁判の諸分野でも,たとえば,知的財産では,特許の対象となる事象自体,裁判官の理解を超えるものが多いであろう。一度,親しい同期の知財事件を扱う部の部長に,本当に理解できるのかと不躾なことを聞いたことがある。彼は,率直に,最初は何が何だかわからない状態であるが,そのうち,わかってくるようになると言っていた。上記のように法律判断と技術自体との理解とは別物だからであろう。

やっぱり,「わかってくるようになる」というのはどういうことなのか,分からないなあ。
気になります。

江戸東京の聖地を歩く

江戸東京の聖地を歩く (ちくま新書1244)

江戸東京の聖地を歩く (ちくま新書1244)

lionusは「少彦名命」という神様に親近感をもっていて,その少彦名命をがお祀りされている神社をぼちぼちお詣りするという”追っかけ”をしています。
しかしそれは「少彦名命」という神様を巡る「物語」が自分の中にこそあれば,の話で,そういうことがなければ,わざわざ関西から愛媛県の山の中にまで行ってすっころぶなんてことはしませんよね(笑)

「物語」あればこその「聖地」,そして「聖地」の流動性と主観性について,江戸東京の「聖地」を通じて展開している本でした。なかなかよかったです。
(山中弘「作られる聖地・蘇る聖地」*1より,聖地へのアプローチは①実在論,②場所論,③構築主義の三つに整理できるとの引用を示した上で:)

p.301
本書が依拠するのが③構築主義論アプローチである。場所に対する人間の語りや振る舞いに注目するのだ。本書では,聖地にまつわる物語を調べることで,ある場所がいかに聖地として語られるようになったのか(あるいは,語られなくなったのか)を明らかにしてきた。
そして,近世以降,急速に都市化した江戸東京の聖地を考える場合,自然環境よりも街をとりまく社会文化的変容に注目するのが有効だ。街の変化の速さが多くの物語を生み出し,それゆえに江戸東京には多くの聖地がある。時代ごとに聖地に紐づけられる物語がしばしば入れ替わるのも特徴である。

pp.145-146
ある人々にとって普遍的価値がある場所も,異なる歴史観を持つ人々にとっては無意味に感じられることがある。場所の意味は,そこを訪れる人が持つ世界観・価値観・倫理観といった主観的要素に依存する。どこがダークツーリズムの対象かは客観的に定義できない。残された物と訪問者の主観が合わさることで,その場所は初めて意味を持つのである。
したがって,ダークツーリズムの下位類型である慰霊や追悼の聖地は,他の場所以上に流動的である。いったい誰が誰の死を思い出し,そして悼むのか。慰霊や追悼の聖地においては,主観が果たす役割は大きくなる。震災・政変・戦争などの結果,江戸東京は数々の悲劇の舞台となり,無数の物語が蓄積してきた。寺社はそうした記憶の保管庫として機能してきたのである。

*1:星野英紀ほか編『聖地巡礼ツーリズム』弘文堂,2012

ジャニーズの正体 & SMAPはなぜ解散したのか

ジャニーズの正体 エンターテインメントの戦後史

ジャニーズの正体 エンターテインメントの戦後史

図書館の新着図書にあるのを見て,何となく読みました。
どちらも,少々センセーショナルなタイトルですが,内容はそんな感じではありませんでした。
『ジャニーズの正体』は,戦後の世相とジャニーズエンターテインメントの発展を関連付けて論じている社会学っぽい内容で,『SMAPはなぜ解散したのか』は,SMAPの内情をどういうというより,日本の芸能界の”義理と人情”に基づく芸能事務所による古色蒼然としたタレント支配の現状と,それらの事務所とメディアの癒着構造を示し,疑問を呈する内容でした。
この二冊を連続して読んだところ,図らずもSMAPという題材を通じて,戦後の高度経済成長に代表されるイケイケドンドンの右肩上がりの時代の終焉と,そこからどうするのか,どうなるのか行く先不透明で不安の漂う平成時代への切り替わりについて述べられている点が興味深かったです。

まず,『ジャニーズの正体』:
イケイケドンドンで,将来も続けて「成長」し続けることに疑問がなかった時代=昭和,昭和のアイドルは「未来志向」を象徴する「若さ」に至上な価値が置かれていた。

p.174
つまり,ジャニー喜多川にとって,ショービジネスとは徹底して未来志向であるべきものである。だからそこに携わる人間は,精神的にいつも大人と子どもの中間にいることが望ましい。子どもから大人への途上に常にあることが,第二章でふれたように彼の人間論において最も重要な成長の可能性を持ち続けることにつながるからだ。その意味で,「若さ」はジャニー喜多川にとってなににも代えがたいものである。そこには「老い」に居場所はない。この場合「老い」とは,成長の可能性を失った状態を意味するからだ。

しかし,40歳を過ぎたSMAPは,徐々にそのような無邪気な「若さ」を売りにする「アイドル」という存在からはみ出していったということです。

pp.165-166
メンバーの脱退や不祥事などの不測の事態があってもそれらを乗り越え,新しいものにたゆまず挑戦を続けながら成長していくそんな彼らの姿に,私たち平成日本社会に生きる人間は,世代や性別を問わず不安の時代を生き抜くための理想のコミュニティを見ようとしたのではあるまいか。そして彼らもまた,その役割をこれ以上ないほど真摯に引き受けようとしたのである。

p.179
SMAPが,「アイドル」という存在とは疎遠なものだったはずの社会的役割を引き受けるようになっていったことにあるように思われる。そしてそのなかで彼らが直面したのは,「若さ」だけではもううまくいかない平成日本社会の実情だったのではあるまいか。
平成が「漠然とした不安」を抱え込んだ時代であることは再三述べてきたが,それは別の角度から言うなら,昭和のように「若さ」を純粋に信じきれなくなったということである。

pp.180-181
「成長」と「成熟」は,単純に対立するものではない。十分に「成長」を遂げたところに初めて「成熟」はあるからだ。しかし,「成熟」と「若さ」は,場合によっては対立する。「成熟」には,いかにうまく年を取るか,いかに老いるかという問いが含まれている。したがって,「若さ」を至上の価値とする考え方とは,折り合いが悪くなる可能性がある。

p.181
おそらくそこに"ジャニー喜多川”と”SMAP"が潜在的に対立する部分があった。それは,個人同士の仲が良い,悪いという話とはまた違うレベルの話である。

p.182
もう少し大きな観点から言えば,そんな「成長」と「成熟」の関係は,「戦後」と「平成」の関係にも重ね合わせることができるだろう。
「平成」もまた,「戦後」の延長線上にある。だが同じ価値観で活きていくのには,もう世の中のあり方がどこかで大きく変わってしまっている。つまり,「平成」は「戦後」に含まれるが,同時になにか異質なものを抱えてしまっている。平成以後を生きてきたSMAP解散発表は,そんな時代の関係をも露わにしたように思う。

p.186
彼らの「解散発表」によって,ジャニーズという"文化”の継承だけでなく「平成」という時代における「戦後」の継承もまた,大きく再起動を迫られることになったのである。

一方,『SMAPはなぜ解散したのか』は,社会学者の辻泉の,アイドルファンは「2種類の人間関係」*1を求めているとする研究を引用し,アイドルファンの「成熟」について述べています。

p.160
アイドル文化は世界中で見られるが,日本のそれは欧米とは明確に異なる。芸能プロダクションのシステムだからこそ,グループアイドルという形式が生み出され,継続してきたが,この点には大きな変化はない。ジャニーズ事務所が”義理と人情”にこだわり続けているように,そこは昭和の時代で時間がとまっている。
ジャニーズ事務所がこれまで想定してきたのは,アイドルを擬似恋愛の対象とするファンの姿だ。それはアイドル文化においてはごく当然のアプローチではあるが,現実的にはSMAPのファンのなかでこれは少数だ。多くのファンは,アイドルを応援しながら日々の生活を送っている。仕事をし,恋愛をし,結婚をし,子どもを産み,歳を重ねていく。アイドルが擬似恋愛の対象であるのは,ファンの多くが10代から20代前半の一時期でしかない。

p.161
アイドル文化においては,ファンが大きく変わってきたのである。それは個々人で見ればライフコースの進展にともなう成熟でもあるが,それ以上に大きい要素として挙げられるのは,ファン同士のネットワークの厚みが増したことだろう。

擬似恋愛的にアイドルに”お熱を上げる”ファンから,自分のライフコースを生きながら,心の友,心の支え的にアイドルを応援するファンとしてのあり方への「成熟」,そしてファン同士が”擬似恋愛上でのライバル”ではなく,同じアイドルを応援する者同士交流するアイドル文化*2への「成熟」,でしょうか。

*1:擬似恋愛の延長にある「ファンとアイドルの関係」,「ファンとファンとの関係」

*2:ただし,同じメンバーのファン同士は交流を避けるという「同担禁止」,例えばキムタクのファン同士は交流しないが,キムタクファンと仲居君ファンは交流OKという文化があるらしい。ファン心理の衝突を避ける意味があるっぽい。

精神療法面接のコツ

精神療法面接のコツ

精神療法面接のコツ

精神療法の技法論を教育(学生指導)へ援用する(しすぎる)のはどうかと思いますが,「厄介な学生」を掌に置いて眺めて自分が冷静になるためのヒント,のようなものを得られることもあるかもしれませんね。
ピンとして抜き書きしたものの中からいくつか以下コピペします。

  • 精神療法理論はその為しえた結果によって自身量られる仮説

p.24
この姿勢で接すると,まず,精神療法の世界で理論と呼ばれているものは,せいぜい仮説の地位に置かれるほどのものに過ぎないことが,見えてくるであろう。
※この姿勢=仮説をたて実験で検証する自然科学のやり方

pp.24-25
理論の価値は新鮮な行動プランや新鮮な視点を生みだしうるか否かにあるのだ,と考えるようになるだろう。それら新鮮な行動プランや視点は,その時点ではただのアイデアに過ぎない。試行され,生じる結果によって行動プランや視点の価値が量られ,それによって基盤となった理論の価値が定まるというのが正しい道筋である。こんにち,仮説と呼ばれるのがふさわしい程度の精神療法理論が,あたかも物差しのごとく用いられ,精神療法の場の外でもてはやされているのは,精神療法と精神療法家にとって不幸なことである。外の世界でくっつけられた虚飾の価値で重みを増した理論が,精神療法の現場に再流入すると,理論が教条の働きをするようになる。結果として,精神療法の現場は不毛の場となる。理論の働きについては,後の章でも何度か触れるが,いまは,精神療法理論は物差しのような他を量る基準ではなく,その為しえた結果によって自身量られる仮説なのだという点だけ,銘記しておいて欲しい。理論に圧倒されないためには,一見よく整っている論旨に対して,「本当だろうか」と疑ってみる能力をもつのがよい。信じるに由来する知恵と疑りに由来する知恵とは,知性にとって車の両輪であり,ともに欠かせない。ただしこの二つの知恵は,終いには「観の目」のなかに統合される。

  • 「厄介は能力である」

p.144
「厄介な症例」の能力を指摘する場合,理の当然として,「厄介は能力である」ということがスタートとなる。厄介であるとは重症の極みではないことでもある。

p.144
「患者が立ち直っていく力の主要部分は,病状を際立たせている部分,例えば厄介さを作っている要素,にしかない」という信念

pp.144-145
「厄介は能力」と言っても,厄介を生みだす特徴は患者ごとにさまざまであるから,能力の指摘も患者ごとにさまざまである。しかし,つぎのことを基本として述べることはできる。
すでに本章の見立ての部分で述べたすべての特徴のうち,負の意味を付与されがちな特徴はすべて「能力」という言葉をくっつけて連想したり解析したりしてみるとアイデアが湧く。各自ためしていただきたい。なかでも,最も重要な「関係を錯綜させる能力」は次章のテーマである。
なお,厄介を能力として話題にとりあげるさいは,その特徴がまず「厄介」として治療者の目に映ったのだという経過を伝えてからスタートするのが定石である。治療者の思考過程を可能な限りガラス張りにするのは,抱え環境の強化のコツである。

世にも美しいダイエット メニューブック

世にも美しいダイエット メニューブック

世にも美しいダイエット メニューブック

昨日の糖質制限本の記事を書いたときに,糖質制限ダイエットの先駆けとしての「世にも美しいダイエット」を思い出し,本棚から取り出して見返してみました。
このメニューブック以外にも,
世にも美しいダイエット

世にも美しいダイエット

世にも美しいダイエット カラダ革命の本

世にも美しいダイエット カラダ革命の本

これらの本を読み*1,一時期「世にも美しいダイエット」をちょっと実践してみたことがありました。
しかし,市販の食品が幅広くNGとなっていて(例えばケチャップとかの調味料,ベーコン,ちくわなど),ガッツリ自炊というか自作を要求される要素が多く,食事法実践にはなかなかの気合と手間がかかるため,米を避ける(控える)というコンセプトは頭の底にこびりつかせたまま,「世にも」から離れていきました。
しばらくして,「世にも」著者が51歳で亡くなったと知り,うーんやっぱりどこか無理な食事法だったのかな~と思ったり。
www.dailyshincho.jp
「世にも」は,(今は亡き)M先生=三木医師の食事療法に宮本美智子さんが出会い感銘を受け,医師考案のそっけない食事法であった「M式」をオシャレな「ダイエット」にアレンジしたものです。そのアレンジ・発展の中で,M式がもっていた”本質”が,快楽的なストイックさに変節していったのかもしれません。

「世にも」著者宮本さんの死後,「低GIダイエット」「糖質制限ダイエット」といった,糖質を避けるというコンセプトでは共通する食事法が喧伝されるようになりました。
「世にも」は少々”早過ぎた”のかもしれません。

先日読んだ「僕が菜食をやめた理由」のブログ主がさらに書いた「体調が改善しない方へ」の下記文章は,健康にいいと言われている食事法をストイックに実践し,しかし望ましい結果につながらなかった(と言っている)人の意見として,ひとつのヒントになるように思いました。

情報が溢れすぎてて、様々な「全く違う主張」が
飛び交っているので、混乱するのも分かります。
ほんとに難しいですよね。
いつからこうなったのでしょう?

僕の考えとしては、「質を考える」ことと、
「過剰な糖質摂取を避ける」ことは、
結構大事かなあ、と思ってますが、
あまりに考えすぎて体調不良を起こしている人もかなり多い、
と最近は思うようになりました。

だから、「いろいろと勉強して試しているけど、
なかなか体調が改善しない」という人は、
とりあえず細かいことは置いといて、
一度頭をリセットして、
「とりあえず食事を楽しく、気楽に食べる」
ってことから再スタートしたら良いかもなぁって思います。

*1:以前”自炊”しデータ化したので,今は本棚にはない。

「疲れ」がとれないのは糖質が原因だった

「疲れ」がとれないのは糖質が原因だった

「疲れ」がとれないのは糖質が原因だった

多分ツイッターで流れてきた「僕が菜食をやめた理由」という記事経由で著者を知り,図書館で検索して所蔵していたのがこれだけで,読んでみたのだと思います。
糖質制限ダイエット,から一歩進んで,糖質を控えることで内臓=副腎の疲労を避けようというのが主張の中心と拝見しました。
代謝関係のことが色々説明されている=仕組み説明が先行していて,具体的な食事処方は後半なので,前半を読み飛ばす人も多かったりして(笑)。
なお当該ブログ記事の,菜食をやめたことと低糖質・高たんぱく食がなぜ関連するかというと,このブログ主が実践されていたようなマクロビ系の菜食はカロリー確保のために根菜や玄米をガッツリ食べる必要があり,それが「糖質のとりすぎ」に結果としてなるからです。

  • 本来糖質は非常時用のエネルギー
  • 通常時は脂肪由来のエネルギーが本来
  • 糖質をエネルギー源として利用すると乳酸*1が発生,乳酸を処理するのに必要なのはビタミンB群

「疲れたときの甘い物」は“気付け薬”にすぎず,糖質をメインのエネルギー源にするとビタミンB群やビタミンCを大量消費してしまい,「栄養不足」に陥り,慢性的な疲労につながる,ということと読みました。

p.136
疲れない脳と体をつくる食べ方の基本をひと言で述べると,「低糖質・高たんぱく」ということになる。
糖質のとりすぎが血糖値の乱れを招き,その調節のためにインスリンやコルチゾール,アドレナリンなどのホルモンが使われてしまうことは,これまで述べてきた通りである。それが続くと,インスリンを分泌している膵臓,そしてコルチゾールやアドレナリンを分泌している副腎が疲労する。すべての元凶は糖質の過剰摂取にあるのだ。

もっとも効率のいいエネルギーは「脂質」

p.153
「糖質をとらなければ脳も体も動かない」という考え方が大きな誤解であることは,本書で述べてきた通りだ。
糖質をとらなくても,私たちの体内にはブドウ糖(グルコース)をつくり出す仕組みが備わっている。また,脳のエネルギー源はブドウ糖(グルコース)だけではない。脂質由来のケトン体も,脳のエネルギー源となってくれるのだ。
ちなみに,たんぱく質からも糖質を産み出すことができる(糖新生)。しかし,たんぱく質は体を形づくる材料であるため,エネルギー源として使うよりも体の材料として使われるようにすべきであるというのが私の考えだ。

大昔流行った「世にも美しいダイエット」にも「油」でエネルギーをとりましょう*2,とあったのと共通してるなあ。

世にも美しいダイエット

世にも美しいダイエット

まあこの「世にも」は実践にはかなり気合と手間が要るので,なかなかこういうことは出来ませんが,低糖質・高たんぱく食の考えをベースに”バランスよく”毎日の食事を設計していきたいですね。

*1:乳酸自体が疲労物質なのではなく,その処理に色々とコストがかかることが疲労につながるらしい。

*2:小松菜をはじめとした青菜を「主食」とした場合,カロリー不足になるため。