マンガでわかるやさしい統計学

マンガでわかるやさしい統計学 (池田書店のマンガでわかるシリーズ)

マンガでわかるやさしい統計学 (池田書店のマンガでわかるシリーズ)

心理学統計の授業設計と授業資料を作成(以前から担当していたが改修)することになり,さてどう作り直すべきかと悩んでいたところ,本屋で見かけ手にとってみました。
記述統計,相関,仮説検定,回帰分析について,若干のマンガと図表をふんだんに使った説明がされています。
マンガで統計学,的な本はいくつかあるのですが,ストーリー仕立てのため展開がやや冗長だったり,お話としては読めるが,統計学の説明としては結構難しかったりして,手にとっても買う気にまではなりませんでした。
しかし,本書は

  • マンガ部分はさほど多くない(ストーリーが冗長でない)
  • 説明が数式をなるべく使わず視覚的(図示)で分かりやすい
  • 正規分布や確率の説明がシンプルなのに,あまり類書(統計入門・初歩)にはない内容(相加平均だけでなく相乗平均,相関係数だけでなく偏相関係数正規分布でないデータも割合の目安がわかる「チェビシェフの不等式」)がある*1

といった点が好ましく思え,購入しました。
科目改修の参考になりそうでよかったです。

*1:恐らく統計を実用する際に必要になってくる事柄を重視した結果ではないか。

原爆死の真実 きのこ雲の下で起きていたこと

原爆死の真実――きのこ雲の下で起きていたこと

原爆死の真実――きのこ雲の下で起きていたこと

2015年8月6日の広島原爆の日に放映された,NHKスペシャル取材班による番組内容の書籍化です。
www.nhk.or.jp
この番組では,被爆者の方の証言をもとに当時の様子をCGで映像化していました。
リアルタイムで番組視聴しましたが,その時の録画は見返す勇気がないまま,HDに置かれています。
その通り凄惨なのですが,被爆者ご本人の体験を決して超えることはできないものであると本書を読み,改めて反芻しています。
www.nhk.or.jp

新版 動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか

雑誌連載をまとめたもので,生命学エッセイという感じの内容です。
非常に刺激的でした。

  • なぜ,学ぶことが必要なのか

p.62
「私たちを既定する生物学的制約から自由になるために,私たちは学ぶのだ」と。

p.62
私たちが今,この目で見ている世界はありのままの自然ではなく,加工されデフォルメされているものなのだ。デフォルメしているのは脳の特殊な操作である。

例えば,錯視など。

p.64
つまり私たちは,直観が導きやすい誤謬を見直すために,あるいは直観が把握しづらい現象へイマジネーションを届かせるためにこそ,勉強を続けるべきなのである。それが私たちを自由にするのだ。

あまりにもすっきりしすぎている言葉だけれど,高校生に向けた言葉とすれば,素敵です。

  • 第2章 汝とは「汝の食べた物」である―「消化」とは情報の解体 生命活動とはアミノ酸の並べ替え

コラーゲンたっぷりの食品を食べても,体内で消化されてバラバラのアミノ酸になって吸収される,つまり,摂ったコラーゲンがそのままお肌ぷりぷりの材料になるわけじゃないよ~ん,という身も蓋もない話には苦笑い。

p.80
合成と分解との動的な平衡状態が「生きている」ということであり,生命とはそのバランスの上に成り立つ「効果」であるからだ。

  • 全体は部分の総和ではない

p.147
生命現象のすべてはエネルギーと情報が織りなすその「効果」のほうにある。つまり,このようにたとえることができる。テレビを分解してどれほど精密に調べても,テレビのことを真に理解したことにはならない。なぜなら,テレビの本質はそこに出現する効果,つまり電気エネルギーと番組という情報が織りなすものだからである。
そして,その効果が現われるために「時間」が必要なのである。より正確に言えばタイミングが。あるタイミングには,この部品とあの部品が出現し,エネルギーと情報が交換されて,ある効果が生み出される。その効果の上に次のステージが準備される。

p.147
このような不可逆的な時間の折りたたみの中に生命は成立する。

p.148
近代の生命学が陥ってしまった罠は,一つの部品に一つの機能があるという幻想だった。部品は多数タイミングよく集まって初めて一つの機能を発揮する。

p.261
私たちの身体は分子的な実体としては,数ヵ月前の自分とはまったく別物になっている。分子は環境からやってきて,いっとき,淀みとしての私たちを作り出し,次の瞬間にはまた環境へと解き放たれていく。

p.261
つまり,そこにあるのは,流れそのものでしかない。その流れの中で,私たちの身体は変わりつつ,かろうじて一定の状態を保っている。その流れ自体が「生きている」ということなのである。シェーンハイマーは,この生命の特異的なありようをダイナミック・ステイト(動的な状態)と呼んだ。私はこの概念をさらに拡張し,生命の均衡の重要性をより強調するため「動的平衡」と訳したい。

pp.262-263
サスティナブルは,動きながら常に分解と再生を繰り返し,自分を作り替えている。それゆえに環境の変化に適応でき,また自分の傷を癒やすことができる。
このように考えると,サスティナブルであることとは,何かを物質的・制度的に保存したり,死守したりすることではないのがおのずと知れる。
サスティナブルなものは,一見,不変のように見えて,実は常に動きながら平衡を保ち,かつわずかながら変化し続けている。その軌跡と運動のあり方を,ずっと後になって「進化」と呼べることに,私たちは気づくのだ。

  • 作ることより壊すこと

p.297
生命にとって重要なのは,作ることよりも,壊すことである。細胞はどんな環境でも,いかなる状況でも,壊すことをやめない。むしろ進んで,エネルギーを使って,積極的に,先回りして,細胞内の構造物をどんどん壊している。なぜか。生命の動的平衡を維持するためである。
秩序あるものは必ず,秩序が乱れる方向に動く。宇宙の大原則,エントロピー増大の法則である。この世界において,最も秩序あるものは生命体だ。生命体にもエントロピー増大の法則が容赦なく襲いかかり,常に,酸化,変性,老廃物が発生する。これを絶え間なく排除しなければ,新しい秩序を作り出すことができない。そのために絶えず,自分を分解しつつ,同時に再構築するという危ういバランスと流れが必要なのだ。これが生きていること,つまり動的平衡である。

上記の「動的平衡」「サスティナブル」「作ることより壊すこと」を読んでいて,東海村臨界事故の犠牲者の方のことを想起しました。
d.hatena.ne.jp

放射線によって染色体が壊されてしまったため,全身の細胞を新たに作り出すことができなくなり,まずはじめに細胞分裂が盛んな腸粘膜,白血球などの再生が止まり身体がどんどん「壊れてゆく」過程と,その絶望的な行程の中で何とかして生命を繋ぎとめようとする必死の医療・看護の様子が描かれていました。

「細胞はどんな環境でも,いかなる状況でも,壊すことをやめない。」

Web上に公開されているデータを収集しデータベース化したの自分的まとめ。

とある目的により,Webのあちこちで公開されているデータを収集し,ひとつのデータベース化する作業を行いました。
いやはやしんどかった。
というのも,それらのデータの形式がまちまちで,統一した対処方法が見いだせず,Excelマクロを組んだり何かスクリプトを書くなどの自動化が困難で,したがってかなりの部分を手作業でやらざるを得なかったからです。
まー,これは自分のスキル不足のせいかもしれません。もっとデキる人だったら自動化する手段を見出していたかもしれません・・・
けれども自分なりにがんがったので,備忘録的に書き残しておきます。

  • データがHTMLのテーブル形式で書かれている場合

(1)(IEのみ)HTMLのテーブルのセル内左隅先頭で右クリック→Excelにデータをエクスポートで,テーブル内容が新規Excelファイルに読み込まれる
(2)IEでHTMLを名前を付けてローカルに保存し,拡張子をxlsに変えExcelで開くと強引にデータを読み込める。(1)と違うのは,メルアドやHPのURLがハイパーリンクそのままリンクになっているところ
(3)(2)をやった後,ハイパーリンクURL文字列を取り出したい場合,VBAを使う→http://qiita.com/tukiyo3/items/5a3e91b61815baf20997 セルの値からURLを取得

  • データがpdfで提供されている場合

(1)そのpdfファイルをDLし,Wordで開いてみると,Wordの表形式でデータが拾える→WordからExcelにコピペ*1
(2)しかし,そのpdfファイルが画像である場合は,テキストが拾えず,死亡(爆)
(3)もひとつ,そのpdfファイルが保護されている場合も,死にます。
→ぐぐったら,FireFoxでpdfを開き,印刷→プリンタをAdobe PDFに指定し,印刷実行→名前を付けて保存ダイアログ→保存したものを開いたら保護が解けている・・・が,ただしpdfコンテンツが画像化してしまうので,その後AcrobatPro上でOCR認識したら誤認識交じりに→余計に手間がかかり爆死
(4)フリーのオンラインサービスでpdf保護を外す方法
https://www.freemypdf.com/→pdfファイルをダウンロードして,このサービスにアップロードし,アンロックしたpdfをダウンロード
→その後,AcrobatProからExcelやWordにエクスポート試してみたが,勝手に画像化されたりいまいち
→結局アンロックしたpdfをAcrobat上で全て選択→Excelコピペで済ませた(後でExcel上で整形しないといけないが)

  • データがHTMLのテーブル形式でない場合

→一見表形式のように見えても,定義タグや,divボックスで表示表現されている→仕方ないのでページに表示されているテキストを選択→Excelにぺったぺったひたすらコピペ。手作業つらい。

  • データ(のテキスト)がHTMLソース内に見あたらない,つまりデータベースを連携利用している

→こちらも,仕方ないのでページに表示されているテキストを選択→Excelにコピペ。

  • 一番”鬼”だったケース

ページ上では項目(例:事務所名と氏名)の間にスペースなど区切り文字的なものが入っているように表示されるが,HTMLソース上では<span>タグしか入っておらず,表示されているテキストをコピペすると項目同士がくっついた状態でExcelに貼り付けられるケース。
なおこれは,上述の「定義タグや,divボックスで表示表現されている」ケースと似ているが,「定義タグや,divボックスで表示表現」されている場合,コピペ時に項目間に改行が入った形になるので,随分まし。
→ブラウザでページを表示し,HTMLソースを表示させる→HTMLソースをTepaエディター(後述)に貼り付け,<span>タグを改行(正規表現利用)に置換した上で,HTMLタグを除去,空行を除去し,不要な文字列を削除してExcelにコピペ

  • 全般的に苦労したところ

Excelに取りこんだり,貼り付けたテキストは,1ケース1行の表形式になっておらず,1ケース複数行になっていることが多かったし,1ケース1行になっていた場合にも,氏名等の項目間に区切り(タブやスペース)が入っておらず,1ケース1セルだったりしたので,Excel関数やらなんやらを駆使して1ケース1行&項目分離の表形式になるよう変形。
しかし,そのようにして1ケース1行の表形式にした場合,ケースとケースの間に空行ができてしまうので,その空行を削除するのにTepaエディター(後述)を多用。

上記過程で使ったツール:

  • pdf保護外すサイト

FreeMyPDF.com - Removes passwords from viewable PDFs

  • Tepaエディター

TepaEditor | フリーの Windows用テキストエディター
正規表現を用いた置換
HTMLタグ除去
空行除去 がむっちゃ役に立った。紹介してくれた知人に感謝。

  • 住所から郵便番号を取得するExcelアドイン

https://121ware.com/qasearch/1007/app/servlet/relatedqa?QID=019262
住所に郵便番号がついてないケースが結構あったので・・・

以上のようにして収集し1ケース1行の形式に整形した表は,それぞれExcelの「テーブル」に変換。
最後にそれらのExcel「テーブル」をExcelのクエリ機能で縦結合してひとつの「テーブル」に合併でき,なんとか一仕事できあがりました。

*1:AcrobatProでpdfを開いている場合,Excel形式でエクスポートできるっぽいけど,成績がよろしくなかった。Word側からpdfを開く方が良好。

1995年

1995年 (ちくま新書)

1995年 (ちくま新書)

1995年は終戦50年目の節目に当たる年である,というだけでなく,日本が”これまでのようにはいかない時代”に突入した象徴的な年であると感じています。
そんな感じへの答えを求めて読んでみました。
内容的には”軽い”です。Amazonのレビューでは出来事の羅列に終わっているという指摘が複数あります。同感です。
ただし,とりあえず多方面にわたって1995年という横断面を示しているという点では資料的価値のある一冊だと思います。

予備校が教育を救う

予備校が教育を救う (文春新書)

予備校が教育を救う (文春新書)

東信堂の「アクティブラーニング・シリーズ」(全7冊)のどれかを読んだときに知り,どんな内容かと気になって読んでみました。
正直言うと,タイトルと内容は不一致だと思います。でもおもしろかったから許す。(^皿^)
著者はK合塾の元教務部長で,R命館大の客員教授にもなられた方です。
3部構成で,

  • 第1部 予備校のお話

K合塾のインサイダーによる予備校の歴史とよもやま話。楽しく読めます。

  • 第2部 学校のお話

公的学校の枠外にある予備校インサイダーが考える,教育論。自分理論だけど一理もある。

  • 第3部 大学のお話

大学はいかにあるべきか。こちらも自分理論だけど読むべきところあります。

自分にとって衝撃だったのが,「第二次ベビーブームが学校を破壊した」という指摘。

p.119
十年にわたる18歳人口の増加と大学・短大合格率のダウン,つまり大学入試競争の激化は中等教育に取り返しのつかない傷あとを残した。予備校はその最中にあって,中等教育がある意味で瓦解していくさまを,毎年入学してくる生徒の変わりようを通じて目撃していたのである。

※「十年にわたる」→1982年~1992年
どのように生徒が変わったというと,手っ取り早く「正解」を求めることにしか専ら興味がなく,知的好奇心に欠け受身な子どもたちの姿が描写されていました。
その背景として,「高校が予備校のお株を奪って,知識の記憶,ドリル,正解発見のテクニック授業に走り出し」(p.122)たことがある,と指摘しています。
ここで,えっ?では高校はそれまでどんな教育をしていたのか,と思いましたが,なんと著者は次のように述べています。

p.125
かつて高校と予備校の間には不文律の分業があった。それは予備校のひとりよがりかもしれないが,確かに分業があった。高校では教科の本質を教える。教えるというより伝える。数学の教師ならば,私がなんで数学に熱狂して,ついに数学教師にまでなってしまったかを,「ほら,数学はこんなに美しいんだよ。まるで芸術じゃないか」と,揺るぎなき論理展開の過程で生徒に伝えていく。そして,なぜ人類は数学を手に入れたかを語り継ぐ。生徒たちはこの世の確かなものを形而上学的世界に見出して目をみはる。国語の教師ならば,なぜ俺が『古事記』の世界に取りつかれてしまったかを,倭武の章をプリントして古代の物語を語る。
それらはいずれも問題の正解とは直接関係のない世界である。高校では入試問題の正解とは直接関係がなくとも,このように教科の本質に横たわることどもを教えた。
そして大学入試問題の正解を出す技法は予備校が教えた。
贅沢すぎる教科の知性を身に纏った生徒を相手に,問題解法の技術を伝授する時こそ,予備校講師の至福の瞬間であった。

?????
こんな高校の授業があったとは,自分の体験からは信じられません。
私が知っている公立学校の教師とは,ともかく教科書を機械的に”消化”することで精一杯か,あるいは教科書を”消化”することも放棄し,そのごく一部の事柄のみを”拾い伝達”するだけ,さらには,もはや喋る気力も尽きているのか,一方的に何か”お経”を小さな声で唱えて*1帰って行くという人々という印象でした(若干一部例外はあり)。
前述の「私が知っている公立学校の教師」について,”消化””拾い伝達”は30代~40代くらいが多かった印象なので,もしかすると「第二次ベビーブームが学校を破壊した」結果の状況だった可能性も?なお50代は”拾い伝達”と”お経”が多かった印象ですが,これは単に老化による体力低下だったのかも。
ま~私のいた高校は偏差値50ちょうどの一山いくらの高校で,浪人して難関大学を目指すような”いい高校”(=K合塾に来る生徒たち)とは違っていたのかもしれません。
ただ,(定年退職後と思われる)嘱託の国語のO先生は迫力があった気がするので,高校には著者の言っているような古きよき時代もあったのかもしれないなあ・・・

その他で印象に残った事柄:

  • 「納得型」と「理解型,肯定型,あるいは予定調和型」

p.129
第二次ベビーブームが残した爪あとで,もうひとつ見過ごせないものがある。納得型の生徒の成績的沈殿である。
「納得型」というのは,生徒の学習に向かう姿勢のひとつのパターンで,K予備校講師らの造語である。反対のパターンを「理解型,肯定型,あるいは予定調和型」などと言う。納得型の沈殿とは,第二次ベビーブームの進行の過程で,ペーパーテストの成績上で納得型が上位から消え,次第に下位に沈殿しはじめた現象を指す。

p.129
まず,理解型,肯定型,予定調和型である。このパターンの生徒の学習に向かう姿勢として特徴的なことは,常に肯定的であるということだ。授業を受ける時,先生の話すことはすべて正しいという前提で受け入れる。教科書に書いてあること,書物に書いてあることもすべて正しいという前提で理解する。
これに対して納得型は,極端に言えば,先生の話すこと,教科書や書物に書いてあることは,森羅万象に照らして本当なのかという,疑いの目をもって受け止める。

かつては「納得型」も「理解型」どちらも成績上位に混在しており,「納得側」は京大クラス,「理解型」は東大クラスの典型であった,ようなことも書いておられます。しかし近年「納得型」がペーパーテストで成績振るわず下位に沈殿しはじめた背景として,第二次ベビーブームで小中高の先生方が繁忙を極め,「納得型」にじっくり向き合い伸ばすきっかけを与えるだけの余裕がなくなったのではと書いておられます。
けれども今後の社会には「理解型」だけでなく「納得型」の特性もますます重要になってくるだろうから,「納得型」の子どもをいかに育てるべきか,初等中等教育の場で問われるべきであるとも指摘されています。
ううむ。最近流行のアクティブラーニングこそ,「納得型」がイキイキできるきっかけになるといいですねえ。

  • 役割による大学の三分類

p.164
大学を役割別に,仮に次の三つに分類するとしよう。
(1)研究者,高級技術者養成大学
(2)専門職業人養成大学
(3)よき社会人養成大学

偏差値でいうと,(1)が難関大,(2)がやや難~中堅,(3)がそれより易しい大学,になるだろうが,特に(3)の学生をいかに育てるかがこれからの日本社会にとって重要だと述べておられます。
ポイントは,
人には勉強が得意な者,体を動かして働く方がいい者,いろいろある→大学新卒サラリーマンの道,だけでなく,それぞれの特性を活かして働くことができる社会を→「つまり巨大な会社や法人などの組織が主体ではなく,自営業の存在をある程度のウエイトで許す,あるいは必要とする社会でなくてはならないのではないか」(p.187)→「好きでない勉強以外の領域で,彼らの能力を開花させるような場所を提供」(p.188)する「よき社会人養成大学」を→「何らかの技能,資格を得ることのできる場所を提供」でき,「できればそこで得たものを拠り所として,将来自営できることが望ましい」(p.188)

p.189
そんなものは専門学校じゃないかと言われるかもしれない。そのとおり。専門学校に近いかもしれない。しかし,大学という名のついた専門学校を希望する子どもたちが大量にいるならば,それに応えればいいではないか。
そんな学部学科は文科省が大学として認めないという声があるかもしれない。いいではないですか。学部学科の名前は従来の定番のままでいいではないですか。

まるで「専門職大学」の予言?
専門職大学・専門職短期大学:文部科学省
文科省が認めてますね!

*1:高3の現国教師は,私は病み上がりなので大きな声が出ませんし,しんどいので座って喋りますと最初の授業で宣言していた。いやまあそれはいいけれども,ハンディマイクを使うとか,板書がままならないなら,プリントを用意するとか何か工夫ができたのではないかなあ・・・

阪急沿線の不思議と謎

先日読んだこの本↓よりも前に同じ監修者で出されていたことに気がついて,読んでみました。
lionus.hatenablog.jp
阪急電車だけでなく沿線のトリビアが満載です。