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思春期・青年期臨床心理学(朝倉心理学講座 16)

思春期・青年期臨床心理学 (朝倉心理学講座)

思春期・青年期臨床心理学 (朝倉心理学講座)

自分は馬齢を重ねつつも、それに似合った成熟がなくてずっと青年期心性のままだなあと思いつつ、なかなか面白く読めました。
どこの章で書いてあったのか忘れましたが、病理が抑圧的心性から解離的心性に移行しつつある、っていうのは実感として腑に落ちます。
「10. 傷つくこころと身体―自傷の心理」のDID(Dissociative Identity Disorder 解離性人格障害)に関する記述は面白かったですね。一部だけ取り出しても?な感じになるので、長いですが引用します。

p.139-140
北米での症例報告ではDISにおける各人格間の深刻な断絶は驚くべきものがあり、それゆえ患者自身もさらに危機的な状況に直面しやすい。ところが日本での症例は本症例のように各人格間にある程度の連絡が成り立っているものが珍しくなく、それのおかげで最終的な破綻を免れている場合が多い。これは日本文化の特性が多分に関与しているものと思われる。
筆者は以前、日本語の「私」を表す単語が多い(僕、俺、わし、わい、私、自分など、その場その場の状況によって変化する)ことと日本人のアイデンティティの問題を関連づけて論じたことがある(康、1997)。河合隼雄が、日本文化は「個」の倫理より「場」の倫理が優先される文化であると指摘したように、もともと日本文化は流動的なアイデンティティのあり方に対して許容的な文化である。その場その場の社会的コンテクストによって「私」は多様な表現形態を身にまとうことができる。そればかりか関西弁で「自分」が一人称にも二人称にも使われる(九州地方の一部の方言では同様に「わい」が一人称にも二人称にも用いられる例がある)ように、「私」と「あなた」は相互流入的かつ融合的である。このことを西欧的な個人主義の観点から見れば、「個」の確立が不十分で、自他の境界が混乱しているということになるであろう。しかし、ほかならぬこの自他融合が社会的に許容されているという事実が、DID患者を深刻な断絶から守っているという見方もできる。つまり、解離されたアイデンティティに対する社会的許容度が日本文化においては非常に高いが故に、社会の柔軟性が解離性障害をある程度抱え込んでくれるのである。日本でDIDの症例報告数が少ないのは、もともと日本文化そのものがDID的なアイデンティティのあり方を内包しているために、「症状」として顕在化することが少ないからなのかもしれない。比較的健康な日本人でも、よく観察してみると解離体験を日常の中にうまく織り込んで生活していることがわかる。酒の席で荒れても「無礼講」だからということで少々のことならば免罪されるし、相手の言動に「キレ」て怒ったり、「逆ギレ」して反発するなど、これらの一種の解離体験である。しかし、諸外国に見られるように、スポーツ観戦客やデモ隊が暴徒化して破壊行為に及んだり死傷者が出たりする現象は日本ではまれである。それはとりもなおさず、個々のアイデンティティが常に集団全体の意識と結びついており、個と集団の間に完全な断絶が生じにくいからである。

ほんまかいなという気もしますが(笑)。一理あるような気もします。
あと、「12. 思春期・青年期の心理臨床―女性の場合」のところどころで、何故か川原泉の漫画のことを思い出しました。
川原泉の漫画には思春期・青年期を迎え、男女分け隔てなく無邪気に過ごしていたところから、男女の”差”に直面し、この世で女性として生きてゆくことの困難さへの戸惑いとひるむ様が通奏低音として流れていたような気がします。
最近の作品については読んでないので、そのあたりどうなっているのかは知りませんが・・・