京都(私の日本地図 14)

京都 (私の日本地図 14)

京都 (私の日本地図 14)

私の日本地図〈14〉京都 (1975年)

私の日本地図〈14〉京都 (1975年)

上は下の復刻版のようです。本の付録に、復刻版の地図も付いていたのですが、「凡例」に今はなき「市営電車」の路線が見えたり、「国有鉄道」の名称がうわ~昭和~という感じでした。
著者がどういう人か全く知識なく、ただ別な本を求めて歩いていた書架の間で”目が合って”しまって借り出してしまいました。
いやなかなか、とつとつとしてよかったです。とても好みな内容でした。
出版当時でも「昔」(昭和初期からその当時の近年、つまり1960年代くらいまで)の歩き目線での、京都の町のあちこちのこと*1が書かれており、今となってはもはや歴史っぽい内容と写真でした。けれども現在にも通じる、庶民目線道端目線の京都の姿が素敵に記述されている本でした。

p.34
京都とういところは古いものをしっかりと抱きかかえて持っている。しかしそれは単に京都人が古いものにこだわっているためではない。そういうものの中にやすらぎを見出そうとする人が日本にはまだたくさんいるということであり、またそれを求めて京都を訪れる人も多い。そういう人たちに対しては京都の人も安心してつきあうことができる。田舎人たちは些細な親切にも喜ぶ心をもっている。そういうものが、京都の町の風物の中ににじみ出ているように思う。私は円山公園の樹下の置座で甘酒をすするたびに、庶民の生きついで来たふるい町の心にふれるように思う。

京都に行ってあれこれ見て回ることは、どうも、古都を”消費”しているような一抹の後ろめたさがつきまとうような気がしていたのですが、そうかそうか。そんな田舎者の視線で磨り減るようなやわなものじゃないのだろうな。

「荒れゆく寺」

p.105
西本願寺のすぐ北に本圀寺という寺があった。境内は西本願寺ほど広くはないが、りっぱな寺であった。本願寺が参拝者も多く活気にみちているのに、この寺は何となくひっそりとしていた。しかし私のすきな寺で、時折ここに詣でていた。本圀寺については私はくわしくは知らない。天文元年(1532)の法華一揆のとき、この寺が中心になり、ここに三千四百人の民衆があつまり、山科本願寺を攻撃に向ったのであった。その頃は活気に満ちた法華寺であり、京都市民の厚い信仰をうけていたはずである。

1966年の日付で、この本圀寺が土塀が崩れている→解体のため屋根瓦を下ろされている→解体途中の写真も載っていました。その後、どうなったのでしょうか・・・?敷地は現在寺でない別の何かになっているのでしょう・・・

p.108
檀家を持たぬ寺は弱い。経済的に支えてゆくものは何一つない。寺の境内に特別の流行神や流行仏でもあればよい。また文化財を持っていても力強い。そういうものを何一つ持たぬ場合は生きのびることはむずかしい。そして経済的な圧迫にたえかねてほろびていった寺も多かったはずであり、本圀寺の現状もそれにあたるものであろう。

最近あちこちのローカル神社を訪ねていると同じようなことを思います。

京都の町中あちこちにある「辻仏」

p.172
京都の町の人たちほど残酷な人の死にざまを見てきた人たちはなかったであろう。飢饉のときなどは、ただわけもなく都へゆけば何か食うものがあるだろうぐらいに考えて京都へ出て来て野たれ死にする人も少なくなかったと思う。

p.172-173
社会秩序が十分に確立されていず、また悪病、戦乱の相ついだ頃には、行き倒れが道を埋めることは少なくなかったと思う。町の人たちは混乱がやや回復すると、この人たちの供養のために碑をたててまつり、死者の冥福を祈った。そうしないと死者の霊はたたるものと考えたのである。
京都でしばしば悪病のはやるのは、不幸な死をとげた者の怨霊のなせるわざと考えた。その怨霊を鎮めるために多くの御霊社がもうけられ、御霊会がもよおされた。

なるほどねえ。確かにねえ。生き残った側も、気持ちのもっていきようがないものねえ。

土地勘がないと面白さ半減だと思いますが、同じシリーズの他の巻も読んでみたくなりました。

*1:丁度あちこちの”名所”が現代的なメジャー観光地化=商業化してゆきつつある過渡期だった模様。