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脳病院をめぐる人びと―帝都・東京の精神病理を探索する

不思議な本でした。
大学図書館の新着図書棚でぱっとタイトル一瞥して,あ~精神病院の歴史みたいな感じのことが読めるかな?と目次も見ずに借り出してしまったのです。
確かに,本書の第1部明治時代から東京にぼちぼち出来ていったそれぞれの精神病院=脳病院の成立について書かれていましたが,第2部は,芥川龍之介太宰治高村智恵子など,精神を病み「脳病院」に入院した(させられた)文学者たちのエピソードだったのです。
興味深かったのは,それら文学者たちの”狂気”について記述する中で,フーコーのいうところの「「人間を魅了する」狂気という概念について痛烈に批判しているところでした(以下引用部の太字は本文では傍点)。

p.314
たしかに大著である『狂気の歴史』のいずれの章にあっても,フーコー狂気とは何かを直截的には定義しない。フーコーのいう狂気は反理性,あるいは理性の支配地域外にあり,つまりは理性によっては定義できない「何ものか」であるらしい。いや,「狂気とは何か?」を定義できるとする近代的理性の権力構造そのものをフーコーは標的とする。フーコーにとって狂気とは,近代社会が専横的に構築し,あるいは緻密に張めぐらせた制度なり法律なり言語空間といった「牢獄」から脱出するための回路であり,実際にニーチェゴッホアルトーは,この脱獄を実践したということか。このようなフーコーの立場は精神医学のみならず近現代における人間存在を射程としているわけで,何も精神科医だけが目くじらを立てる必要はなかろう。けれど狂気に関するフーコーの論及が,時に近代精神医学への憎悪と,狂気への礼讃に近いものを孕むのは何故なのか。

pp.314-315
狂気を征服しようとする近代理性が権力構造となり得るように,狂気もまた本来はひとつの権力,つまりは人間に本来的に備わった自然の一部であるということか。けれどすでに見たように芥川や宇野,辻潤,智恵子,太宰や中也らの狂気はその内因性・外因性・心因性の如何に関わらず,あるいは境界例であるか否かを問わず,結果として見るならば悲惨の極みであり,およそ権力などと呼ばれ得るものではない。さらに高村智恵子高橋新吉,中村故峡などに見るまでもなく,狂気はその近親者にもはかり知れぬ不安と苦痛を与えるものであることに対して,フーコーは何も触れない。

フーコーが言ってる”狂気”は甘美でロマンチックな感じみたいだけどさ,ほんま,精神病状態になったらマジシャレならないんだってば!!
訳分からんこと言って暴れるしホンマ迷惑なんだって!!
もうだからこれは脳病院に押し込めてどうにかしてもらわないとこっちの身がもたないというかヤバイんだってば!!
・・・と極めて乱暴に,まとめてみました・・・
あと,所謂病跡学について言及しているところも,痛快で笑ってしまいました(太字はlionusによる)。

p.251
病跡学とは一線を画すとする土井健郎の『漱石の心的世界』の精神分析学的な考察にしても,『行人』の苦悩する登場人物「一郎」を分裂病的であると推論するが,漱石からすれば「だから何なのか……」という感じではないか。問題は漱石が何故そのような分裂病質の人間を小説の中心に据えているのかであろう。そもそも文学とは,その時代その人間のなんらかの内面性の「傷」や「脆弱性」を扱う空間であって,その「傷」や「脆弱性」を媒介として時代なり人間なりの本質を描くものではないか。肉体的にも精神的にも「健全」「健康」な人間の心理など描いても文学的には退屈の極みであり,いや,そのような人間の心理が現代社会において「異常」であるという意味では,興味深い文学となるのかもしれない。

最後に,著者「エピローグ」を読んで,ああもしかすると君ここを読めと,本書と”目が合った”のかもしれないと感じました。

p.337
執筆にあたっての探索を続けるなかで,「自分がいかに何も知らないか」を痛感したことも,過去の二冊と同じである。精神医学は専門外と書いたが,もともと建築設計を本業とする私にとって,日本近代史も文学史も専門外であり,「生まれ故郷」として詳しいはずの東京のトポロジーやその来歴についてさえ,知らないことばかりであった。それは本書を書き上げた現在も変わらない。つまり私は近代精神医学という「森」や,日本近代文学史という「森」を抜けていく小道を散策したに過ぎず,どの「森」の道なき道へも深く分け入ったわけではない。
ではそういう私とは,どのような意味でも「専門家」でない私とは何者であるのか。言葉の正確な定義は措くとして,とりあえず「散策者」とでもしておきたい。何故ならば「散者」は事前に綿密な計画を立てるわけでもなく,興味の赴くままに歩き始め,行き先も定めず,あるいは場当たり的に寄り道を繰り返し,迷子になることも厭わない。いや,迷子になることも至上の愉しみであろう。

なお著者プロフィールには「一級建築士」で「現在、建築デザイン事務所を運営」とあります。仕事私事の合間を縫ってこういう御本を書かれるとは何とも奇特な方です。