死体は今日も泣いている 日本の「死因」はウソだらけ

死体は今日も泣いている?日本の「死因」はウソだらけ? (光文社新書)

死体は今日も泣いている?日本の「死因」はウソだらけ? (光文社新書)

図書館の書架でたまたま見かけ,以前友人のブログ記事に取り上げられていたのを思い出して,読んでみました。
法医学者が日本の異状死の取り扱いが先進諸国では例外的に”ゆるすぎる”*1ことを指摘(告発)している本なのですが,それはそのまま,日本は「なんちゃって法治国家」である,という痛烈な批判につながっていることが印象的でした。
長くなりますが,以下引用します。

  • 江戸時代からの「自白文化」

pp.150―151
日本の死因究明制度は,先進諸国と比べて非常にプリミティブ,かつ複雑です。その源をたどると,戦後どころか,江戸時代にまでさかのぼります。
江戸時代,死因の究明は中国古来の方法をまねて行われていました。すなわち,捜査は周辺の関係者や被疑者の供述を元に行われ,遺体は解剖などせず外表検査をするだけ。重要なのは自白であり,外表検査は供述が嘘か本当かを見抜き,自白を得るための手段という位置づけです。そして,自白が得られたら衆人環境の中で罰を与え,ほかの人が同様の罪を犯さないように見せしめにしたのです。
つまり,科学的な事実が先にあるのではなく,「犯人はこいつに違いない」というおかみの見立てが先にあって,それに沿って捜査が進められ,一見科学的らしく見えるようなことは,それを補完するためだけに使われたわけです。
明治になって,外国の脅威にさらされた日本は,近代的法治国家になることを目指して,西洋諸国から民法や刑法を輸入しました。その際に,のちに東京大学法医学教室の初代教授となる片山國嘉が,明治天皇の勅命を受けてドイツとオーストリアに留学し,日本に司法解剖の制度を導入しました。しかし,解剖に対する社会の無理解と法医学者の養成不足,実施可能な解剖数の制限から,死因がわからなければとりあえず司法解剖するヨーロッパのような制度とはならず,警察が犯罪性があるか疑う場合のみ司法解剖するという,現在まで続く異常な運営方法になったのです。

p.151
そもそも中国,あるいは江戸時代の日本の犯罪捜査の基本,自白第一主義のベースには,儒教の基本思想の一つ「徳治主義」があると私は思っています。

pp.151-152
おかみは徳が高くいつも正しいのだから,おかみが「おまえが犯人だ」と言えば,その人が犯人であることに間違いはない。犯人も,本来の性は善なのだから,おかみに諭されれば,罪を悔いて自分のやったことをすっかり白状するはずだという論理です。それに対して西洋からもたらされた「法治主義」とは,法によって国を治めることであり,性悪説に基づいています。為政者も嘘をつくことがあるし,間違えることもある。人民も嘘をつくし,間違えることもある。だから,すべての人に平等な法というルールを決めておきましょう,という考え方です。
「徳治・法治」「性善説性悪説」と並べて書くと,徳治や性善説の方が人に優しく,よいことのように見えます。しかし,そうでしょうか?本当に恐いのは,人の徳や善意という曖昧で恣意的なものをよしとし,それを建て前にして行動することではないでしょうか。ましてや,法治国家における刑事司法で,性善説など本来通用しないはずなのですが,日本は本当におかしな国です。日本は法治国家といいますが,法律を海外から輸入し猿まねをしただけのなんちゃって法治国家で,まさに「仏作って魂入れず」なのです。

  • 間違いがあってもフィードバックされない

p.153
日本では,理念なく行き当たりばったりに死因究明方法を独自に改変させてきた結果,「解剖や薬物検査を含む医学的な検査を最初に行ってから犯罪性の判断をする」という先進諸国のスタンダードとはかけ離れた死因究明方法を構築してしまい,迷宮から抜け出せなくなっているのです。

*1:警察による初動捜査で犯罪性なしと判断されたら,それ以上追及されない。そもそも,警察官は医学的に死因を判断する専門家ではないので,例えば,もしかすると自殺を装った殺人が行われていても見過ごされているケースがどのくらいあるのだろうか,と本書を読むとガクブル。