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ドイツリスク 「夢見る政治」が引き起こす混乱

ドイツリスク 「夢見る政治」が引き起こす混乱 (光文社新書)

ドイツリスク 「夢見る政治」が引き起こす混乱 (光文社新書)

ナチスの蛮行などがあるにせよ,一般的にドイツが嫌いという日本人は多数派ではないと思います。日独同盟などもあったし,少なくともドイツ人が日本に対して(一般的に)ネガティブな印象を持っているとはあまり思われないのではないでしょうか。
自分も,バッハとかすごいし,法律とか医学とかドイツからもってきているものが沢山あるし,お世話になりました的な感情はあっても,ネガティブな印象はありませんでした。
しかし,ドイツ人は日本人が思うほど日本のことをよくは思ってませんよ~ということが本書を読むとよく分かります。
著者は読売新聞のベルリン特派員を務め,現在編集委員の方で,ドイツ現地メディアやドイツの知識人等へのインタビューを通じて,ドイツってどういう国なのかということを独特の視点から記述しておられ興味深かったです。
タイトルにもなっている「夢見る」とは,本書では,ロマン主義的性向のことを指しているようです。
このドイツのロマン主義的性向と観念的に行動する傾向が結びついた結果,ドイツに,ひいてはヨーロッパ全体に不安定要因をもたらすのではないか,と著者は考察しています。

pp.181-182
歴史学者ヴィンクラーが,「シュビーゲル」誌(2014年4月14日号)に興味深いエッセイを書いている。
1920年年代のドイツでは,ドイツとロシアは気性が似通っている,という過度の思い込みが広がっていた。そのだしに使われたのがドストエフスキーだったが,トーマス・マンも含め知識人が魅了されたのは,ドストエフスキーの持つ,西欧の皮相的な合理主義に背を向けた姿勢だった。この西と東の思想闘争においてドイツがどこに位置しなければならなかったか,というと,東の側だった」
「ヴァイマール共和国時代は右派の政治家,軍人,知識人は,内政においては反共主義を掲げていたが,ソ連との協力関係強化に努めた。1925年に,後のナチ政権宣伝省ヨーゼフ・ゲッペルスは,ユダヤ的な国際主義を克服し,一国社会主義路線に転換したソ連に,『西欧の悪魔的な誘惑と腐敗に対抗するための盟友』の姿を見たのだった。」
プーチンは,同性愛支持プロパガンダ,フェミニズム,放蕩と戦う一方で,伝統的な家族形態と伝統的価値を支持している。こうしたすべてのことがキリスト教原理主義者や米国の右派の喝采を浴びている。かつてプロレタリア国際主義が成し遂げたことを,今やプーチンの保守的反近代主義が達成しているのだろう。まさに弁証法的転換であり,プーチンは今やヨーロッパの,それどころか世界の反動勢力のパトロンとなったのだ」

トランプ大統領がプーチンスキーな印象を受けるのも,うなづける・・・

pp.238-239
18世紀後半以来の「ロマン主義」との連続性を前提とするならば,緑の党や反原発環境保護運動にも,開明的な「西側世界」に反旗を翻すような非合理的な衝動,反科学主義,反進歩主義が宿っている,と見るのが適当だろう。
ロマン主義と現在のドイツを結びつけるとき,このドイツ人の自然との関わり合いの連続性という視点と,もう一つ,ドイツ人が認識し行動するときの観念性が継続している,と見る視点がある。それはドイツ人の政治下手,歴史認識における過度の倫理化を説明する視点でもある。
この二つの方向性がどう関連するのかは難しい問いだが,「自然=感性=非合理主義」と「人工=理性=合理主義」が対概念になることを前提とすれば,自然を理想視するドイツ人の魂のあり方は,必然的に理性より感性を重んじる「夢見る人」の性向,すなわち,経験論的に情報を集めて冷静に分析するよりも,非合理的情動に依拠して行動を急ぐ姿勢につながる,と説明することができようか。

「開明的な「西側世界」に反旗を翻すような非合理的な衝動,反科学主義,反進歩主義」は東方=(マッチョな価値観をもつプーチンが率いている)ロシアおよび,中国への親近感と接近をもたらしている,ということだそうです。
ロシアはともかく,日本に直接関係がありそうな中国のドイツへの接近については,以下の点をよく踏まえておくことが必要でしょうね。

p.218
繰り返すが,ドイツに屈服とも言える歴史認識を強いたのは,同国の過去の戦争犯罪の中心がホロコーストという,何人も肯定できない絶対悪,人道に対する罪だったからである。国際社会でまっとうな地位を回復するためにはドイツは謝罪するしかなかった。

p.219
一方で,歴史認識に関しドイツ知識人が抱く屈折した心理が存在する。第2次世界大戦後,ナチ・ドイツによる蛮行に対する国際社会の厳しい非難はドイツ知識人を苦しめたから,その心理的補償を得るには,「過去の克服」を徹底してそれを誇る,といった屈折した形をとった面があるのではないか。ドイツ語に「罪を誇る」(Schuldstolz)という言葉があるが,戦争に伴うすべてをドイツの責任として受け入れて謝罪することを続けるうちに,ドイツ人は,逆説的だが,過去の克服に関して,倫理的な高みを獲得したと信じ込むようになった。いわば「贖罪のイデオロギー化」が起こったのである。
そこに,日本が過去の正当化に拘泥することを倫理的に批判する,少なくとも主観的な優越性が生まれた。ドイツ人に対し,ドイツの過去克服の歩みが世界の模範であり,日本は邪悪である,と繰り返し語りかけることは,屈折した優越感をくすぐる働きをする。そこには,ナチズムの過去を糾弾され続けてきたドイツ人が,「道徳的に自分より劣った日本人」を発見して,バランスを回復する精神のメカニズムがあるのではないか。それは,素直にナショナルな感情を表出することをタブー視されてきたドイツ人がたどり着いた,屈折したナショナリズムの表現なのかもしれない。