同心円でいこう 田中角栄(ミネルヴァ日本評伝選)

植木等 だまって俺について来い 歌詞

ぜにのないやつぁ
俺んとこへこい

http://j-lyric.net/artist/a000d73/l01db94.html

この曲を思い出しました。
まあ,植木等は続けて「俺もないけど 心配するな」と歌っているのに対し,田中角栄は「俺がやるから 心配するな」となるのでしょうが(笑)。
田中角栄こそ,まさに昭和の高度経済成長期とともに権力の階段を登りつめ,それを体現したひとりの男であったと認識した一冊でした。
最近の「田中角栄ブーム」本は読んでいませんので,それらの本で彼がどのように描かれているのか知りませんが,本書はポジティブネガティブ両面から田中角栄という政治家を丁寧に要約していると拝見しました。
私は田中角栄の”全盛期”は知らず,記憶のかなたにあるのは脳梗塞で倒れた後くらいでしたので,「コンピューター付きブルドーザー」と言われたのもなるほどと思える,驚異的な頭のキレと実行力のある政治家だったのだな~と実感できました。
本書の前半は立身出世伝と頂点に立ってからの転落,そして病に倒れた後の無念と,かなりのエンターテイメントな内容ですが,後半は,著者の考察がゴリゴリ効いていて,前半も後半も読みごたえがあります。
後半の著者考察で印象深かったものをいくつか:

  • 金で”忠誠”を買う?

p.227
角栄にとって,金を受け取った側が恩義を感じてくれなければ,無駄なのである。相手のプライドを考え,負担にならないように渡すのは,相手が確実に恩義を感じるようにするためである。プライドを傷つけると,ありがたさよりも恨みが残る。だから相手に金を「受け取っていただく」。しかも貸した金を返せとはいわない。金は経済的手段ではなく,自分の気持ち(情)を伝える手段なのである。だから見込んだ人物には,頼まれなくとも渡す。
(中略)
p228
金はいくらあっても邪魔になるものではないから,ほとんどの者は受け取る。受け取れば,角栄の気持ちを受けとったことになる。金は返さなくともいいが,恩は返さなければならない。一方的な金銭の贈与が繰り返されれば,恩返しは,忠誠となる。恒常的に金を受け取るものは角栄の家来になる。必要に応じて受け取る者は,角栄シンパとして広大な中間地帯を形成することになる。
このように田中は,皮肉にも貨幣を使って前近代的な人間関係を作り上げたのである。なぜ皮肉かといえば,もともと貨幣経済の浸透を通じて人々は前近代的な身分・地位関係から解放され,近代的な自由にして対等な市民になるといわれるのだが,田中は,貨幣が近代社会であらゆる価値と交換できるオールマイティになったことを利用して,前近代的な忠義関係を築き上げたからである。封建時代において領主は家臣に封土を与え,忠誠を得たが,田中角栄は金銭を与え,忠誠を獲得した。

  • タイトルにもある「同心円」とは

p.246
田中政治が包摂の政治であったといっても,田中に権力欲がなかったということではない。田中に強い権力への意志があったことは言を俟たない。しかし田中の考える権力とは,敵を抹殺する力ではない。田中登が,創政会立ち上げの際に田中邸に挨拶に訪れたところ,田中は「同心円でいこう」と語りかけたといわれるが,同心円こそが田中の考える政治のイメージであり,そして権力とは円の中心から放射され,円を形作るものであった。
(中略)
p.247 円としての権力は,このような境界を設定する主権ではない。むしろ,どこまでも包み込もうとする力である。権力の限界は,光源の力がそれ以上及ばないというだけのことであって,そこに排除の意図は込められていない。光源が強くなれば,それに伴い外縁も広がり,より多くを包摂する。

「同心円」の中心を「光源」と表現しているのは,なかなか巧み。

  • パターナル・デモクラシー

p.253
自由民主主義では,選挙で選ばれた代表が政治的決定を行うが,市民は決定する権利を放棄したわけではない。もし自らのプロパティ(生命・財産・権利)が代表たちの政治的決定によって侵害されたならば,市民はそれに抵抗する権利を持つ。つまり自由民主主義においては,市民は通常政治的決定を代表に委ねるが,いざとなれば抵抗し,決定権を自らに奪還する権利を留保している。したがって市民と代表の間には潜在的な緊張関係が存在する。このような緊張関係から生まれる制約こそが,代表による決定を民意を考慮した民主的なものにする。選挙だけでなく,政治の決定においても,有権者は影響力を行使することができる。
これに対して,田中の考える庶民は,自由な個人というよりは家父長によって庇護される存在である。田中の選挙民主主義は,自由主義というよりは家父長主義(パターナリズム)に基盤を置く。

しかし本書では,上記に続いて「しかし今日自由主義的といわれる国々の政治をみれば,パターナリズムの存在しない国はな」く,それは西欧では「大きな福祉国家」として実現されている,的な記述が続くのですが,なかなか面白かったです。

p.255
田中政治は,リベラル・デモクラシー(自由民主主義)というよりは,パターナル・デモクラシー(家父長的民主主義)と呼ぶのがふさわしい。

  • ポスト田中政治の行方

p..261
もちろん角栄の時代のように,情を金で表す政治はもはや通用しない。しかし手段は違っても,情を重んじる田中政治が,この国ではなお多くの人々の共感を得,愛されている。世にいう田中角栄ブームは,田中の情の政治に対する人々の郷愁に深く根ざしているとはいえまいか。
だが個人の自由を軽視して安心と安全ばかりを求めれば,そこに生まれるのは完全な監視・管理社会であり,民主主義そのものが破壊されてしまう。それが田中の望んだ社会であるとは到底思えない。過度なパターナリズムを抑制し,民主主義を擁護するためには,庶民を権利主体である市民へと彫琢し,彼らの活動=生活を充実させる支店,言い換えれば,個人の自由と自立の可能性を花開かせるような方向へと同心円の政治を発展させる必要がある。これこそがポスト田中政治には望まれるのである。田中政治の遺産を過去から現在,そして未来へと引き継ぐ一筋の道であろう。

満足に食えなきゃそもそも「権利主体である市民へと彫琢」されないし・・・
ああ。