学術書の編集者

学術書の編集者

学術書の編集者

新着図書の棚で見かけ,タイトルだけ見て「学術書」の編集の裏話こぼれ話なのかな~と借りて読んでしまいました。
確かに,そういう要素の本でしたが,いい意味で期待を裏切る本でした。凄かったです。
特に,「第1章 編集とは何か―挑発=媒介と専門知の協同化」のところは,引っかかり引っかかり立ち止まりながらの読みになりました。
色々引っかかったポイントのうち,いくつか。

  • 本は単なる「情報源」ではない
  • 読むことは決して「受け身」な営みではなく,能動的な試みであり,時に情報を”処理”する自己の変革をもたらす行為である。

p.11
経験財は,探索財とも対比して使われる概念で,探索財の方は,たとえば電気製品の機能をあれこれ比較してから購入する場合のように,事前に自分のニーズにあっているかどうかを検討できるものです。しかし経験財の方は,林氏の説明のように,その良し悪しは事前にはわかりません。

p.12
たとえば推理小説の種明かしが,その小説を読む経験を代替できないように,情報が経験そのものを代替できるわけではありません。特に書籍のように,どのように読むか,さらにそれがどのように活きてくるか/こないかが,読者それぞれに依存するものにおいては,なおさらですし,人によっては,或る書物を読む経験が人生の転機にもなるように,「情報を処理する」はずの安定した自己の変容をすらもたらすのですから。
この事前の経験の不可能性を補うもう一つの方法が信頼性ということになりますが,それを著者とともに出版社が担うことが期待されるというのが,ここで言いたいことです。もちろん,この信頼性の方も,経験者の評価にさらされるわけですが,少なくとも当面の視野の範囲での評価が及ばない部分があり,(「当時は意味もわかからず読んだが,歳をとってから振り返るとその内容が役に立っていた」),信頼性の役割は書籍にとって核心的なものだと考えられます(だから信頼財だと言えるのです)。

昔,勧められて読んだ,『プルーストとイカ』でも似たようなことが書かれていたな~と思い出しました。

  • 専門家と非専門家を繋ぐメディアとしての「学術書」
  • 専門家のタコツボ化を防ぐためには何が必要か?
  • 「新しい教養」,言い換えれば「市民的教養」の涵養の必要性(小林傳司先生の文献をひいて)
  • 学問の「徳」について(徳科学論)

p.36
これは,「徳倫理学(ヴァーチュー・エシックス)」「徳認識論(ヴァーチュー・エピステモロジー)」という考え方からヒントを得たものです。

p.37-38
しかし,「徳科学論」という言葉で考えたいのは,認識ないし知識一般のことではありません。学問がさまざまな分野をもち,その分野ごとに自らを正当化する考え方や手続きが異なり,それらは,その分野が対象と関わる際の世界との接続の仕方や,その分野の成果が社会と接続する仕方によって,変わってくる,ということに関わります。その分野を探求する学者は,それぞれの分野がもっている考え方や手続きを大切だ,つまり価値があると思って行動しているわけですが,それをここではそれぞれの科学の「徳」=ヴァーチューとして捉えたいわけです。もちろん,この「徳」には,多くの分野を貫いて共通するものもあるでしょうし,比較的限られた,場合によっては,ある特定の分野にだけあてはまる「徳」もあるはずです。
また,複数の学問分野に共通する「徳」があるのと同様に,テーマや対象が複数の分野で共通することもあるでしょう。というより,先ほど地震の例をあげましたように,同じテーマや対象を別の角度から研究していることも多いわけです。このとき,この「別の角度」というものをどのように考えるのか,その基礎的な考え方を共有しておくことが,相互理解のためには必要だと思うのです。
先に使った言葉ですと,「ディシプリン」という用語に近く,ある意味ではその中に含まれていると言えるかもしれませんが,規律や訓練の側面ではなく,価値の側面を前面に出すために「徳」=ヴァーチューという言葉を使いたいと思います(逆に言えば,規律・訓練の側面で捉えた概念が「ディシプリン」で,それゆえこれは学者の養成に関わるものです)。そして,なぜこういうことを考えたいかといいますと,それぞれの分野によって「徳」(正確には複数の「徳」の組み合わせ,ないしは「徳」の束)が異なるという事実をはっきり認識すると同時に,そうした異なった「徳」を学者どうしが,あるいは学者以外の人が,尊重する必要性をうったえたいからです。