私の日本地図12 瀬戸内海 IV 備讃の瀬戸付近

瀬戸内海シリーズの4冊目,これが最後です。

p.45
海の中の島というものは,陸地の村とちがって,外の世界と思いもそめぬような糸でつながっているものだ。

p.45
どうして昔の藩の境をこえてこのような人の結びつきがあったのであろうか。船の往来の途中でおこった人間関係であるに違いない。

寺の過去帳から,ええこの人が遠く離れたこの島から?とかの驚きです。
島=離島,って互いに離れているけれども海でつながってるもんね。船があればすいっとワープできるよね。陸のような関所もないし(多分ポイントポイントにそれに類似したものはあるにしても陸の関所を越えるよりは容易では?)。

pp.159-160
せまい水道をぬけて海がやや広くなるところに砂洲が突き出ていて,その砂洲の上は松原になっている。そしてその松原の中に社がある。こういう風景に接すると心をうたれる。もしここに社がなければ,ここに家が立ちならんでいたであろう。こういうところを聖地として神を祀ったが故に自然が残ったのだと言っていい。今,日本のうちで人の住むところに多少とも自然らしいものの残っているのは,たいていそこに神がまつられている。神がいなければ,日本では人の住むところに自然がのこらない。
そのことは日本の都会の一つひとつをとりあげて見るとよくわかる。人間の住むところに人間の意志のみの力によって緑地をのこすことのできないのが日本人ではなかろうか。

うんうん。
でもそれさえも都市部では難しくなっています。神社の領域がマンションに侵食されていくなど。

pp.257-258
東瀬戸内海の旅をふりかえってみると,昭和12年のアチックミューゼアム調査団の一行に参加したのを除いて,私なりに何らかの目的をもっていた。漁業制度改革にともなう漁業および漁村の現状と,それがどのようにかわってゆくであろうかということを見ようとしたたび,離島振興法という法律が島の人たちにどれほどの救いになっているか,またなっていないか,あるいはまた製塩が沿岸の人びとにとってどのような支えになっているか,というようなことを少しでもたしかめたいと思ってのことであった。
しかもそれぞれの地域社会に生きている人たちは,みな精いっぱいに働き,自分たちの生活を守ろうとしてきていたといっていい。にもかかわらず,周囲の状況の変化が,その生活をつきくずしていた力が実につよい。
周囲の力は資本主義的な発展といってもよいが,それらが地域社会の人びとの生活に有利に,あるいは幸運に働きかけた例はきわめて乏しい。ひたすらに一応安定していた生活をつきくずし,解体し,資本主義体制の中へそのバラバラにしたものを吸収することで終結している。地域社会の一般民衆が生きのびるために勤勉にならざるを得なかったこと,また生きのびるためにふるさとを捨てざるを得なかったことを,それぞれの地域社会の中に見つけて,これでよいのだろうかと暗然となってくる。その象徴を室津の高畠さんの家に見る。資本主義的発展は室津の港の歴史を語るこの家を朽ちさせてしまうことはしても,これを守ることはできないのであろうか。