生命・人間・経済学 科学者の疑義

生命・人間・経済学 科学者の疑義

生命・人間・経済学 科学者の疑義

『科学者の疑義--生命科学と経済学の対話』(1977年、朝日出版社刊)の復刻版です。
復刻と知らずに本書を読んでも,まず違和感がない(最近の対談本)と思うほど,現在でも通用する内容であることにびっくりします。
福島智東京大学教授による下記冒頭解説の通りです。

p.14
「予言書」の側面は,とにかくすごい。出版から8年後の電電公社のNTTへの民営化,10年後の国鉄からJRへの民営化,そして27年後の国立大学の法人化,などなど,ほとんど見通している。
この他にも読者は,本書のなかに見いだされる現在に通じる問題提起や指摘の多さに驚愕するだろう。

一読しての驚愕内容は色々あるのですが,
経済学(新古典派経済学)が,個人を「孤立した形で存在している」ものとしてとらえ,個人の行動は他に何の影響も及ぼさないし,他からも受けないということを前提としている,ということに軽く衝撃を受けました。
言われれば確かにそうだったかと思うのですが,

p.222
渡辺 僕らみたいな素人から見ると,新古典派では各人のあいだの相互作用はないとしてしまうわけね。という意味ではそれは「理想気体」を考えているわけで,人間社会では本来成り立たない架空的なことを考えている。それでも架空の経済学は成り立つわけね。それが現実の人間社会に適用できる経済学であるかどうかは別問題として,それはある意味では,一つの基礎的な経済学としては成立するけれども,現実のわれわれの人間社会に適用できるかどうか,はじめから非常に疑問な経済学だったってことですね。

という感想は私も同じです。

なんでもかんでも金銭的価値で捉えていく考えで戦後~高度経済復興を通り抜けたけれども,豊かな生活というのは実は幻想で,実のところ我々の生活は”貧しく”なってなくない?という1977年当時の問いかけは,ちょうど40年目の今でも全く有効です。重たいです。

p.256(宇沢)
費用はかからなくて,しかも文化的に豊かな生活を営めるような社会が望ましいという自明なことを再確認しておきたいと思います。

いやいやほんとに。

あと長くなりますが,大学についての記述を引用しておきます。こちらもいやいやほんとに。
なお東大(をはじめとする国立大学)についての言及はずっと昔のことで,独法化して国から基本的にもらえるお金が毎年ちまちまと減らされている現在,もはや「粗末な建物で」「みんなが火鉢を囲みながらやっている」状態になるのも遠い将来ではないかも・・・それもおカネが万物の尺度となっている現代社会の行き着く末であると本書では読めます。

pp.61-62
宇沢  たとえば東大なら東大が,もっと粗末な建物で,みんなが火鉢を囲みながらやっているならば,世間も認めると思うのです。しかし現実にはかなり立派な建物で,学生も快適な環境を享受し,しかも最近は非常に所得の高い家庭の子供でないと入れないような具合になってきた。教官のほうもそういうところで,何千億かかっても国はわれわれの研究費を出すのが当然であるというふうになっている。自分のやっていることがそれほど社会的に有益であるかどうか。僕にはそれだけの自信がないのですけれども。
渡辺  明治時代の旧帝大は,ああいう形で学問をつくり上げることが,ある程度必要だったと思いますが,いまの大学は社会でよい地位を得るための機械に堕してしまっていますね。いまは必ずしも国立大学に才能のある人が入っているとは限らないし,たとえば東大に入るのには家に財産があって子供のときからそのための教育をしておかなければ入れない。
宇沢 知性をこわすような形での受験勉強をですね。
渡辺 だから大学はもう本当の意味での知的な場所ではなくなっていますね。
宇沢  知的な修練を積んで人間的な成長の契機とするような意味合いはなくなっています。そして,そういう意味で知的ではない学生が卒業して,しかし彼らに社会的な特権が与えられる。
渡辺  科学者の社会的責任を考えるうえでも,それが問題ですね。本質的に知的でない人たちがどんどん学者になって,そういう人で大学が占められる可能性も大きいわけです。医者として人間的に好ましくない人が医者になりつつある傾向が見えているけれども,それと同じで大学人にふさわしくない人が大学を占領しそうになっているのが現状じゃないかな?本当に知的な人は大学に入れないものね。
宇沢  大学に入るには,人間の知性と創造性とを徹底的に痛めつけなければなりませんからね。また,それに耐える従順性が要るわけです。受験制度というのは,子供を心理的に殴りつける。殴りつけておいて,その治療に当たるようなものを―たとえば塾といったものを―受けなければならないような心理状態に追いやっている。