京都を学ぶ【洛北編】―文化資源を発掘する

京都を学ぶ【洛北編】: 文化資源を発掘する

京都を学ぶ【洛北編】: 文化資源を発掘する

図書館の新着の棚で見かけて,何となく読んでみました。
複数の研究者がそれぞれの分野から「洛北」について書かれているもので,ややかたい内容ですが,「納豆餅」の由来話は面白かったです。
また,本書のカラー中表紙として『新撰増補京大絵図』貞享3(1686)刊 が載っていて,その存在を知ることができたのもよかったです。
この絵図は国立国会図書館のデジタルアーカイブで,インターネット上で無料で見られます。すごい。
国立国会図書館デジタルコレクション - 京大絵図

さて「納豆餅」とは,「洛北」の山間部,京北・美山・日吉東部で食べられているもので,丸餅に納豆をはさんで半月状に折って食べるものだそうです。
筆者はこの「納豆餅」について「宮中雑煮」に起源をもつものではないかと考察しています。長くなりますが,以下本書記述を抜粋します。

p.203
京都では,1700年代初め頃から雑煮祝いが儀礼化していった。年初,一家の主人か長男が汲んだ若水とおけら火(大晦に八坂神社でもらう浄められた火種)で,稲魂が宿る丸小餅と冬野菜を煮て,雑煮を作り,年神様と家族が分かち合って食べる。そのため,雑煮箸は両細になっており,一方は人,もう一方は神様が食べる神人共食用になっている。

p.203
その雑煮は白味噌仕立てであるが,白味噌は戦国時代末期か江戸時代初期にはあったと言われている。

p.204
では「儀礼化」が起こる前の雑煮はどのようなものであったのか。一つ考えられるのは,宮中雑煮である。宮中では,二段重ねの鏡餅が飾られ,その鏡餅の上には,「葩(ルビ:はなびら)」と呼ばれる薄く円い白餅が十二枚,さらにその上に赤い小豆汁で染められた菱餅が十二枚載せられていた。その「葩」が,公家のほか,雑色といった下級役人にまで配られたのである。そのとき,葩の上にひし餅を載せ,ごぼうを載せ,味噌をつけて,配られたという。それをその場で半月状に折りたたんで食べ,酒の肴にした人もいれば,それを持ち帰る人もいたようである。煮てはいないが,宮中の雑煮とはこのようなものであり,それは「包み雑煮」とも呼ばれていた。そしてその半月状に折りたたんだ形のものが,今も裏千家の初釜で出される「花びら餅」である。

さらに,その持ち帰り硬くなった「包み雑煮」を湯で煮て食べたのではないかと書かれています。
一方,京都北部の篠山市東部や京丹波町では正月の集まりで,白味噌を丸餅に塗って半月状に閉じて食べるということにも言及。

p.206
では,「餅味噌雑煮」を食べる人が見られる京丹波町や洛北地域に取り囲まれるようにして,「餅味噌雑煮」と全く似ていない「納豆餅」を正月三が日に食べた人が京北・美山・日吉東部とその周辺地域で見られたし,今も見られるのはなぜか。そして「納豆餅」はなぜ半月状をしているのか。
それは,「包み雑煮」に似た「味噌餅」が「餅味噌雑煮」に取って代わられる前に,あるいは取って代わられようとしたときに,「味噌餅」の味噌が納豆に置き換えられたからではないか。

ほうほう。でもなぜ味噌が納豆に?

p.207
(京北・美山・日吉東部は)
山がちの冷涼な気候のところであり,裏作で作物を作るのが難しく,農業生産高が多くない地域である。これらの地域は木材や薪や炭を売って生計を立てていたのであるが,食料に関しては,他地域からかなりの量を買わなければならなかったはずである。それゆえこれらの地域では,炭水化物だけでなくタンパク質や脂質を多く含む大豆が,きわめて大切な食料であった。

山の斜面でも畑を作って栽培できる大豆な貴重な食料源になっていたけれども,大豆はそのままでは硬く消化に悪い→豆腐で食べる?(食べられる割合が少なく効率が悪い)→味噌にする?(麹を作るのが面倒,当時高価な塩も必要)→納豆なら,麹も塩も要らず,ワラさえあればできる。

p.208
自分が住む地域が納豆作りに適していることに感謝して,「納豆」を作り,「味噌餅」の味噌を納豆に置き換え,「納豆餅」にして,正月三が日に食べるようになったとしても,不思議ではない。

ふむふむ。
「納豆作りに適している」→冷蔵庫とかなかった昔は,ある程度冷涼でないと納豆作りできなかった。

他方,近くの篠山市東部や京丹波町でも良質の大豆が取れるのに納豆(納豆餅)が広まらなかったのか?→丹波杜氏の歴史があり,麹の扱いに慣れていたからではないか?それに,甘味が貴重であった当時は,白味噌の持つ甘さも魅力だったかも,と考察されていました。