予備校が教育を救う

予備校が教育を救う (文春新書)

予備校が教育を救う (文春新書)

東信堂の「アクティブラーニング・シリーズ」(全7冊)のどれかを読んだときに知り,どんな内容かと気になって読んでみました。
正直言うと,タイトルと内容は不一致だと思います。でもおもしろかったから許す。(^皿^)
著者はK合塾の元教務部長で,R命館大の客員教授にもなられた方です。
3部構成で,

  • 第1部 予備校のお話

K合塾のインサイダーによる予備校の歴史とよもやま話。楽しく読めます。

  • 第2部 学校のお話

公的学校の枠外にある予備校インサイダーが考える,教育論。自分理論だけど一理もある。

  • 第3部 大学のお話

大学はいかにあるべきか。こちらも自分理論だけど読むべきところあります。

自分にとって衝撃だったのが,「第二次ベビーブームが学校を破壊した」という指摘。

p.119
十年にわたる18歳人口の増加と大学・短大合格率のダウン,つまり大学入試競争の激化は中等教育に取り返しのつかない傷あとを残した。予備校はその最中にあって,中等教育がある意味で瓦解していくさまを,毎年入学してくる生徒の変わりようを通じて目撃していたのである。

※「十年にわたる」→1982年~1992年
どのように生徒が変わったというと,手っ取り早く「正解」を求めることにしか専ら興味がなく,知的好奇心に欠け受身な子どもたちの姿が描写されていました。
その背景として,「高校が予備校のお株を奪って,知識の記憶,ドリル,正解発見のテクニック授業に走り出し」(p.122)たことがある,と指摘しています。
ここで,えっ?では高校はそれまでどんな教育をしていたのか,と思いましたが,なんと著者は次のように述べています。

p.125
かつて高校と予備校の間には不文律の分業があった。それは予備校のひとりよがりかもしれないが,確かに分業があった。高校では教科の本質を教える。教えるというより伝える。数学の教師ならば,私がなんで数学に熱狂して,ついに数学教師にまでなってしまったかを,「ほら,数学はこんなに美しいんだよ。まるで芸術じゃないか」と,揺るぎなき論理展開の過程で生徒に伝えていく。そして,なぜ人類は数学を手に入れたかを語り継ぐ。生徒たちはこの世の確かなものを形而上学的世界に見出して目をみはる。国語の教師ならば,なぜ俺が『古事記』の世界に取りつかれてしまったかを,倭武の章をプリントして古代の物語を語る。
それらはいずれも問題の正解とは直接関係のない世界である。高校では入試問題の正解とは直接関係がなくとも,このように教科の本質に横たわることどもを教えた。
そして大学入試問題の正解を出す技法は予備校が教えた。
贅沢すぎる教科の知性を身に纏った生徒を相手に,問題解法の技術を伝授する時こそ,予備校講師の至福の瞬間であった。

?????
こんな高校の授業があったとは,自分の体験からは信じられません。
私が知っている公立学校の教師とは,ともかく教科書を機械的に”消化”することで精一杯か,あるいは教科書を”消化”することも放棄し,そのごく一部の事柄のみを”拾い伝達”するだけ,さらには,もはや喋る気力も尽きているのか,一方的に何か”お経”を小さな声で唱えて*1帰って行くという人々という印象でした(若干一部例外はあり)。
前述の「私が知っている公立学校の教師」について,”消化””拾い伝達”は30代~40代くらいが多かった印象なので,もしかすると「第二次ベビーブームが学校を破壊した」結果の状況だった可能性も?なお50代は”拾い伝達”と”お経”が多かった印象ですが,これは単に老化による体力低下だったのかも。
ま~私のいた高校は偏差値50ちょうどの一山いくらの高校で,浪人して難関大学を目指すような”いい高校”(=K合塾に来る生徒たち)とは違っていたのかもしれません。
ただ,(定年退職後と思われる)嘱託の国語のO先生は迫力があった気がするので,高校には著者の言っているような古きよき時代もあったのかもしれないなあ・・・

その他で印象に残った事柄:

  • 「納得型」と「理解型,肯定型,あるいは予定調和型」

p.129
第二次ベビーブームが残した爪あとで,もうひとつ見過ごせないものがある。納得型の生徒の成績的沈殿である。
「納得型」というのは,生徒の学習に向かう姿勢のひとつのパターンで,K予備校講師らの造語である。反対のパターンを「理解型,肯定型,あるいは予定調和型」などと言う。納得型の沈殿とは,第二次ベビーブームの進行の過程で,ペーパーテストの成績上で納得型が上位から消え,次第に下位に沈殿しはじめた現象を指す。

p.129
まず,理解型,肯定型,予定調和型である。このパターンの生徒の学習に向かう姿勢として特徴的なことは,常に肯定的であるということだ。授業を受ける時,先生の話すことはすべて正しいという前提で受け入れる。教科書に書いてあること,書物に書いてあることもすべて正しいという前提で理解する。
これに対して納得型は,極端に言えば,先生の話すこと,教科書や書物に書いてあることは,森羅万象に照らして本当なのかという,疑いの目をもって受け止める。

かつては「納得型」も「理解型」どちらも成績上位に混在しており,「納得側」は京大クラス,「理解型」は東大クラスの典型であった,ようなことも書いておられます。しかし近年「納得型」がペーパーテストで成績振るわず下位に沈殿しはじめた背景として,第二次ベビーブームで小中高の先生方が繁忙を極め,「納得型」にじっくり向き合い伸ばすきっかけを与えるだけの余裕がなくなったのではと書いておられます。
けれども今後の社会には「理解型」だけでなく「納得型」の特性もますます重要になってくるだろうから,「納得型」の子どもをいかに育てるべきか,初等中等教育の場で問われるべきであるとも指摘されています。
ううむ。最近流行のアクティブラーニングこそ,「納得型」がイキイキできるきっかけになるといいですねえ。

  • 役割による大学の三分類

p.164
大学を役割別に,仮に次の三つに分類するとしよう。
(1)研究者,高級技術者養成大学
(2)専門職業人養成大学
(3)よき社会人養成大学

偏差値でいうと,(1)が難関大,(2)がやや難~中堅,(3)がそれより易しい大学,になるだろうが,特に(3)の学生をいかに育てるかがこれからの日本社会にとって重要だと述べておられます。
ポイントは,
人には勉強が得意な者,体を動かして働く方がいい者,いろいろある→大学新卒サラリーマンの道,だけでなく,それぞれの特性を活かして働くことができる社会を→「つまり巨大な会社や法人などの組織が主体ではなく,自営業の存在をある程度のウエイトで許す,あるいは必要とする社会でなくてはならないのではないか」(p.187)→「好きでない勉強以外の領域で,彼らの能力を開花させるような場所を提供」(p.188)する「よき社会人養成大学」を→「何らかの技能,資格を得ることのできる場所を提供」でき,「できればそこで得たものを拠り所として,将来自営できることが望ましい」(p.188)

p.189
そんなものは専門学校じゃないかと言われるかもしれない。そのとおり。専門学校に近いかもしれない。しかし,大学という名のついた専門学校を希望する子どもたちが大量にいるならば,それに応えればいいではないか。
そんな学部学科は文科省が大学として認めないという声があるかもしれない。いいではないですか。学部学科の名前は従来の定番のままでいいではないですか。

まるで「専門職大学」の予言?
専門職大学・専門職短期大学:文部科学省
文科省が認めてますね!

*1:高3の現国教師は,私は病み上がりなので大きな声が出ませんし,しんどいので座って喋りますと最初の授業で宣言していた。いやまあそれはいいけれども,ハンディマイクを使うとか,板書がままならないなら,プリントを用意するとか何か工夫ができたのではないかなあ・・・