ご存知かどうか知らないが、俺は修験道という謎の信仰、宗教が好きで、その気配の残る地へと用もないのに一人で車を走らせ、実際にその場に立って地勢を眺め、呼吸をし、中途半端に未開のまま時代に取り残された原始宗教の欠片に想いを馳せるという趣味がある。
— 川井俊夫 (@toshiokawai1122) 2020年1月4日
俺は学者じゃないので、べつに論文を読んだり歴史の勉強をしたりしない。ただ空海による密教の伝来以前に、なぜか古来の山岳信仰と合体した、未熟で不正確な密教の欠片とその様々な解釈をもって体系化されぬまま、それでも実践され続けたその不思議で不気味な“雰囲気”が好きなだけだ。
— 川井俊夫 (@toshiokawai1122) 2020年1月4日
続くツイートも興味深く読みました。
その後2月に入って(上記ツイートよりも前に借り出していた)本書を読み,上記ツイートを思い出し自分の中で勝手にそして衝撃的に得心した感じです。
哲学者と二人の高僧が修験道について語り合った内容をまとめたものですが,対談の記録ですので体系的にまとまったものではありません。
しかし,近年のパワースポットブームとか,スピリチュアルブームなどを考えるヒントになりそうな気がします。
p.168(田中)
修験道は理論を教える信仰ではない。修行によって感じとっていく信仰です。(太字は本文傍点)つまり何かを感じとることができたとき,古代からつづいてきた,もしかすると縄文の時代からつづいてきた,日本の風土に気づくことができる。昔の人々がつくってきた世界観に,いま自分は戻ろうとしているのかもしれない,と。欧米文明ではない世界に戻っていこうとしているのだ,と。そういうことへの欲求が,都市の生活のなかからも生まれているのが現在だと思いますね。だから,修験道に興味をもって山にくる人たちが増えてきた。
p.169(田中)
日本人というより,日本の風土自体に,自然との結びつきのような DNA が受け継がれている。だから,欧米生まれの人でも,いつの間にかこの「風土の記憶」のようなものに「感染」してしまう。山伏修行に来る人といっても,日本の風土のことを考えながら山を歩いているわけではありません。 そんな難しいことは誰も考えていない。にもかかわらず歩いていると,昔から受け継がれてきた世界観,自然と人間と神仏が同心円的に結ばれている世界を感じ取る。自然を征服しようなどと思わなくなる。大峰でいえば,役行者が歩いた道を歩かせてもらっているありがたさを感じる。そして,自然に手を合わせたくなる。
p.182(内山)
人間は現在の自分の利益だけで何かを決めてもいいのだろうかと思いますね。過去の諒解を得る,未来の諒解を得る,それをするから現在の諒解も得られる。
今はやりのSDGsっぽい?!(本書の対談は2011年?らしいです)
p.215(田中)
こんなふうにも思っています。現代文明のもとでは,たとえば実践という言葉を使っても,頭のなかで考えることが実践になってしまった。計画をつくるにせよ,問題提起をするにせよ,脳のなかですべてが終わっている。いわば人間の身体性を損なってしまったのです。心と体は一体のもので,脳は心からも外れたコンピュータのようなものですが,その部分だけで終わってしまうと,身体性が損なわれるだけでなく心も閉じ込められてしまう。修験の修行をしていて気づくことは,それまで閉じ込められていた心が解放されていくことです。身体で感じていけるようになると,心も自由になっていく。山伏修行をすると,そういうことを感じる人が多い。そのこともまた現代人を惹きつけはじめている原因なのではないかと思っています。