巨大災害の世紀を生き抜く

巨大災害の世紀を生き抜く (集英社新書)

巨大災害の世紀を生き抜く (集英社新書)

ここ最近連続して読んでいる広瀬弘忠先生のご本です。
2011年11月に出版された新書で,2011年3月の東日本大震災福島第一原子力発電所の事故後に書かれている,特に後者の福島第一の事故についてかなり詳しく書かれているというのがポイントです。
というのも,広瀬先生は,東京電力が(過去に)起こしたデータ改竄を受け社内に設けた「原子力安全・品質保障会議」に2002年から2007年まで外部有識者として参加していて,内部情報を色々と知る立場にあったそうです。
「第2章 原子力発電所はなぜ事故を起こしたか」には,章タイトル通りのことが明快にコンパクトに書かれているように拝見しました。非常に価値があると思います。
その他,本書の特色としては「第3章 災害と情報」で,原発事故をきっかけに,”専門家”や政府の出す公式情報が信じられなくなった風潮と,一方でインターネット(そしてツイッター等のSNS)で玉石混交ながら個人でも居ながらにして様々な情報を取捨選択できるようになった状況について書かれているところも見所でしょう。

情報リテラシー 情報をどう読み解くか
p.96
 これまで私たちは,専門家や権威ある人たちの発信する情報を鵜呑みにして,従うことが多かった。
pp.96-97
(中略)専門家や権威ある人たちの出す情報を信じていれば,あるいは鵜呑みにしていれば世の中の多数派でいられるし,自分で情報を集めて判断する面倒もないからだ。
 だが,原子力災害が現実のものとなって,私たちの情報リテラシーには明らかに変化が起こっている。まず,私たちの多くが,テレビを中心に溢れた”専門家”の出す情報を疑うようになった。現実に何が起こっているかは誰にもわからない状態で,事故がどう展開するかを語る専門家たちは,視聴者をなだめるために言葉を選び,その予想をもっとも甘いレベルに落として語り続けた。だが,その予想は,水素爆発や,当時は「燃料棒の一部が水面に出ている」と伝えられた炉心融解が疑われる状況などが次々に起こってくる中で,ことごとく覆されていった。そこに私たちが見たのは,とにかく国民の危機感をあおって,暴走させないように,安心させておこうという情報操作そのものであった。それが公的な情報に対する私たちの信頼を,決定的に失わせたように思う。

現在私たちが直面している「新型コロナウィルス問題」についても,同じような状況であると感じます。
ただ,当時の福島第一の状況と違うのは,福島第一は近くまで行ってつぶさに現地の状況を見るのは非常に困難であり,誰もそこで何が起こっているのかよく分かっていなかった?のに対し,今回の新型コロナウイルスは”現場”に多くの人が直接関わっており,感染者数は一部マスコミ等でいわれているように,わざと検査しないようにして過小評価ができたとしても*1,死者数について情報操作することはまずできなさそうですから,結局のところウソごまかしは比較的目に見える形で破綻する(よってそんなに事実とかけ離れたことは発表できない・しない)のではということです。

ツイッターはデマを”拡散”するのか
p.112
今の時代,メディアには公式なメディアと,ソーシャルメディアと二種のメディアが存在する。その二種が健全に機能していれば,混乱を招くようなデマは起こらないものなのだ。
 特にツイッターのようなソーシャルメディアは,非常に開かれたメディアである。そこにはさまざまな人が参加できるので,おしゃべりを交わす感覚で議論をすることができる。
p.114
 大切なのは,この議論である。不特定多数の人が参加できる場だからこそ,偏った意見には必ずチェックが入る。このチェックが重要なのだ。ソーシャルメディア上の議論は,自由度が高ければ高いほど極端な方向には走らない。チェックにより自浄作用が働くのである。無理に抑制しようとすればかえって逆効果になる。自由と軽快さが必要なのだ。エスプリが尊重される世界といってよいかもしれない。
 このように誰にでも情報を発信し,受容することができ,気軽な議論が行われる開かれた社会では,デマは小規模には生じることはあっても,社会全体に影響するような大きな規模になることはまずない。

2011年,特に原発事故の後はツイッターで色々な情報が飛び交いましたが,色々過ぎて自分はかえって疑心暗鬼不安混乱が高まり,情報の取捨選択ができませんでした。
けれども,2020年の現在,ツイッター上での新型コロナウイルス関連については,上記広瀬先生が書かれているように,「自由と軽快さ」「エスプリが尊重される世界」のよさが,かなりの程度発揮されているような印象を受けています。

*1:本当に”わざと検査しない”ようにしているのかどうかは私には分かりませんが。