エイズへの挑戦 - 患者・科学者・メディア・社会

1989年の出版です。エイズという感染症について心理学にとどまらず,本書タイトル通りの幅広い視点でまとめておられます。
80年代当時はエイズ=死という認識が一般的でしたから,恐るべき感染症の発見と,それに対する社会(人々)の反応は,非常に赤裸々で建前をかなぐり捨てるようなものであったことが,よく分かります。
エイズウイルスと新型コロナウイルスとは,

  • 致死性(当時のエイズは感染したらほぼ死,新型コロナは2割重症化,そのうちの一部が死に至る)
  • 感染経路(エイズウイルスは体液交換を伴う行為=かなりまれで非常に私的状況,新型コロナは飛沫感染接触感染で,ありふれた状況行動でも感染する可能性あり)
  • ウイルスの強さ(エイズウイルスはちょっとしたことですぐ感染性を失う,新型コロナは条件によれば3日間人間の体外でも活きているとか)

といったところが違いますので,エイズ感染症について書かれている本書の内容がそのままそっくり参考になるわけではありませんが,私が本書を読んだ時(2月末~3月初めくらいだったかな),ほおおと思ったポイントを抜き書きします。

エイズにかかっている子どもの登校を認めるかどうかについての当時のアメリカの議論に関して)

p.39
しかし,他方,危険を回避するために彼らが正当と考える手段を行使すれば,死に直面している一人の子供の本来的な権利を奪うことになる。二つの選択肢があり,そのいずれを採っても,負の結果が生起するとき,リスク処理の方法として適切なのは,トータルな損害の最小化をはかるということである。ここで発生する問題のひとつは,一人の人間の権利やプライバシーを,どのくらいの重みをもつものとして,評価するかということである。例えば,公平さと,個人の尊厳に価値を置く,成熟した社会と,いささかでも危険な因子は排除すべし,そのためには棄民も辞せじとする集団主義への強い指向性を持つ社会との間における社会構造の違いは,人権や個の尊厳の評価に大きな差異を生じるであろう。

pp.57-58 
非意図的な感染行為はさておき,意図的なエイズ感染を未然に防ぐためには,感染者を社会から追放するのではなく,カウンセリングなどを通して,彼らの苦痛をやわらげてやる必要がある。そして,カウンセラーがエイズ患者に意図的な感染行為への衝動を見い出したら,そのような行為の無益さを悟らせ,結果としてもたらされるであろう残忍な事態を,よく承知させる必要がある。明白なことがひとつだけある。それは法律的規制による罰則の適用によって意図的感染行為を防止することはできないということである。エイズ感染が起こるのが,セックスや麻薬常習(静脈注射)という,きわめて秘められた場であるということが,その最大の理由である。

新型コロナの場合には,上記エイズのような意図的な感染行為はあまり起こらない(まあ俺はコロナだって飲食店に行って”うつした”らしい事例はありましたが・・・)でしょうが,感染したら陰性確認まで隔離生活になりますので,心理的サポートの必要性は同様でしょう。

その他:

  • エイズ・パニック」に関連して図式化された「脅威発生のメカニズム」は参考になりそう(人間が認識するものとしての脅威)
  • 検査の精度について(擬陽性と偽陰性の問題)

p.318
有効な治療法もワクチンもない現在,エイズと戦う最も有力な武器のひとつが,医学を含めた自然科学の所有する巨大な武器庫の中にではなく,皮肉なことに貧しい社会科学者の手の中にあった。断定的口調をあえて厭わずに述べるならば,エイズとの戦闘を支える最後の切り札は,「教育と広報」である。個人が自覚的に, 感染の危険度の高い行動を回避することこそが最良の防衛措置であり,それ以上効果的に,疫病としてのエイズに対抗できる手段は,現在のところないと言ってよいであろう。習慣行動の改変,あるいは説得的コミュニケーションによる行動の変容の問題に関しては,心理学を中心とする社会科学が長い研究の歴史と知見の蓄積をもっている。

この後,先行研究の結果をひいて書かれているところは,結局どうすりゃいいんだ?!という感じで宙ぶらりんなのですが,まあ考えるとっかかりにはなると思いました。