〈趣味〉としての戦争:戦記雑誌『丸』の文化史

私は読んだことはありませんが、書店の店頭で『丸』という雑誌があることは認知していました。こういう雑誌の愛好者=ミリオタ?、それがさらに発展した「軍事評論家」、例えば1991年の湾岸戦争時にブレークした江畑謙介氏とかイメージするのですが、
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今までそういった軍事趣味な人たちに抱いていた漠然としたイメージがみるみる明確化・言語化されるような感じで、一気に読み切ってしまいました。
いやいや面白かったです。
ただ、面白かったというのは、本書は、軍事趣味な人たちの”生態”を記しているのではなく、『丸』という雑誌を切り口にして、戦後日本における「戦争」の見方の変遷を鮮やかに描いているというのがすごいのです。

以下、自分がほうほうほう!と思った部分、少々長くなりますが抜き書き:
(1960年代くらいの話)

pp.78-79
 戦無派の少年世代にとって、学校では教えてもらえない戦記やメカニズムといったミリタリー・カルチャーは、「主体的に得る知識」、すなわちある種の「教養」や「知識」であった。そして、それらを全般に扱う雑誌『丸』は、教養メディアであった。実際、当時の『丸』の読者には、「戦争を知らないわれわれにとって、戦争の歴史の一時点にあたかも自分が直面しているような緊張感をだきながら、”戦争の実体”をうけいれることができるのは「丸」によってのみ可能である」という旨の投書が寄せられている。
 戦記やメカニズムが「教養」たり得たのは、1950年代後半における過去への郷愁と現代社会への批判が一体となった戦記受容を後背としていたためである。先述したように、特攻を含む勇壮な空戦記は、「マンボ族」が氾濫する「堕落した現代」との対比において、「殉国至誠」を掲げた軍隊社会の「規律で行動する過去」を省みる心性のもとで読まれていた。

p.79
 先に挙げた「週刊文春」の同記事内では、「現代少年のタイプには、一方の極にマンボ族があり、一方の極に戦記族がある」と綴られている。少年世代にとって戦記雑誌『丸』を読むことは、「堕落した現代社会」の象徴「マンボ族」とみなされないためのポーズてあった。
 と同時に他方でそれは、盛んに「反戦」を説く教師への違和感、いわば反学校文化でもあった。

p.79
 「物知り顔先生」が説く歴史観を「受動的」に教えられるのではなく、体験者によって綴られた戦記としての歴史観を「主体的」に選びとることで、少年世代は「自発的に歴史を学び、今の社会を考えるエリート」としての自覚を持ち得た。つまり、「マンボにくるい桃色遊戯にふける」不良でもなく、かといって「日教組に染まった」教師のいうことだけをきく優等生でもない、「主体的」なエリート意識を充足させる機能を『丸』は果たしていた。

なるほど。一種の「反学校文化」「主体的なエリート意識を充足させる」側面があったということか。