心理学をめぐる私の時代史:シリーズ「自伝」my life my world

出たら(多分ほぼ)読んでいる、ミネルヴァ書房の シリーズ「自伝」my life my world に、心理学者の浜田寿美男先生のものが出ているのを見て、早速読みました。
浜田寿美男先生は、発達心理学者でかつ、甲山事件等えん罪事件として争われているケースの供述分析で有名です。
自分も今まで先生のご本は何冊か読んだことはあるのですが、なんかピンと来ないな~今いち分からんな~と思っていたのが、この「自伝」本で先生の研究(仕事)への姿勢について読めたおかげで、今までよりは少し理解できるようになる気がします。

pp.296-297
 刑事訴訟法第三一七条には「事実の認定は、証拠による」とあります。当然のことです。しかし、その条文を眺めて、私が奇妙な感覚をもちはじめたのは、袴田さんの自白の鑑定作業に没頭していた頃だったように思います。ここでいう「証拠」は根拠の不明な危険なものであってはいけませんし、まして自白は危険な証拠といわれているわけですから、これを証拠にするについてはそれたけ慎重でなければなりません。しかし、現実の裁判における事実認定を見ていて、逆に怖いなと思うのは、裁判官たちはときに「事実の認定」として有罪方向の心証を固めたうえで、そこから逆に有罪の判決に必要な「証拠」を選んでいるのではないかと見えることです。そうなれば、むしろ「事実の認定は、証拠による」どころか、「証拠は、事実の認定による」というおかしなことになってしまいます。
 袴田事件の第一審判決(静岡地裁)が一通の自白調書だけを証拠として採用し、袴田さんに死刑を宣告したのは、まさにこの「証拠(の選定)は、事実の認定による」ということではなかったか。私にはそうした思いを禁じることができませんでした。この判決を書いた判官は、まず他の物的証拠や情况証拠から袴田さんに対して有罪の心証を取り、そのうえで矛盾に満ちた膨大な自白調書から一通のみを「証拠」として採用することで、自白過程の流れのなかに内在する矛盾を振い落としたのではないか。そして、その証拠採用の論拠を法実務の枠組に沿ってひねり出したのでないか。そんな疑念すら感じていました。