ドイツリスク 「夢見る政治」が引き起こす混乱

ドイツリスク 「夢見る政治」が引き起こす混乱 (光文社新書)

ドイツリスク 「夢見る政治」が引き起こす混乱 (光文社新書)

ナチスの蛮行などがあるにせよ,一般的にドイツが嫌いという日本人は多数派ではないと思います。日独同盟などもあったし,少なくともドイツ人が日本に対して(一般的に)ネガティブな印象を持っているとはあまり思われないのではないでしょうか。
自分も,バッハとかすごいし,法律とか医学とかドイツからもってきているものが沢山あるし,お世話になりました的な感情はあっても,ネガティブな印象はありませんでした。
しかし,ドイツ人は日本人が思うほど日本のことをよくは思ってませんよ~ということが本書を読むとよく分かります。
著者は読売新聞のベルリン特派員を務め,現在編集委員の方で,ドイツ現地メディアやドイツの知識人等へのインタビューを通じて,ドイツってどういう国なのかということを独特の視点から記述しておられ興味深かったです。
タイトルにもなっている「夢見る」とは,本書では,ロマン主義的性向のことを指しているようです。
このドイツのロマン主義的性向と観念的に行動する傾向が結びついた結果,ドイツに,ひいてはヨーロッパ全体に不安定要因をもたらすのではないか,と著者は考察しています。

pp.181-182
歴史学者ヴィンクラーが,「シュビーゲル」誌(2014年4月14日号)に興味深いエッセイを書いている。
1920年年代のドイツでは,ドイツとロシアは気性が似通っている,という過度の思い込みが広がっていた。そのだしに使われたのがドストエフスキーだったが,トーマス・マンも含め知識人が魅了されたのは,ドストエフスキーの持つ,西欧の皮相的な合理主義に背を向けた姿勢だった。この西と東の思想闘争においてドイツがどこに位置しなければならなかったか,というと,東の側だった」
「ヴァイマール共和国時代は右派の政治家,軍人,知識人は,内政においては反共主義を掲げていたが,ソ連との協力関係強化に努めた。1925年に,後のナチ政権宣伝省ヨーゼフ・ゲッペルスは,ユダヤ的な国際主義を克服し,一国社会主義路線に転換したソ連に,『西欧の悪魔的な誘惑と腐敗に対抗するための盟友』の姿を見たのだった。」
プーチンは,同性愛支持プロパガンダ,フェミニズム,放蕩と戦う一方で,伝統的な家族形態と伝統的価値を支持している。こうしたすべてのことがキリスト教原理主義者や米国の右派の喝采を浴びている。かつてプロレタリア国際主義が成し遂げたことを,今やプーチンの保守的反近代主義が達成しているのだろう。まさに弁証法的転換であり,プーチンは今やヨーロッパの,それどころか世界の反動勢力のパトロンとなったのだ」

トランプ大統領がプーチンスキーな印象を受けるのも,うなづける・・・

pp.238-239
18世紀後半以来の「ロマン主義」との連続性を前提とするならば,緑の党や反原発環境保護運動にも,開明的な「西側世界」に反旗を翻すような非合理的な衝動,反科学主義,反進歩主義が宿っている,と見るのが適当だろう。
ロマン主義と現在のドイツを結びつけるとき,このドイツ人の自然との関わり合いの連続性という視点と,もう一つ,ドイツ人が認識し行動するときの観念性が継続している,と見る視点がある。それはドイツ人の政治下手,歴史認識における過度の倫理化を説明する視点でもある。
この二つの方向性がどう関連するのかは難しい問いだが,「自然=感性=非合理主義」と「人工=理性=合理主義」が対概念になることを前提とすれば,自然を理想視するドイツ人の魂のあり方は,必然的に理性より感性を重んじる「夢見る人」の性向,すなわち,経験論的に情報を集めて冷静に分析するよりも,非合理的情動に依拠して行動を急ぐ姿勢につながる,と説明することができようか。

「開明的な「西側世界」に反旗を翻すような非合理的な衝動,反科学主義,反進歩主義」は東方=(マッチョな価値観をもつプーチンが率いている)ロシアおよび,中国への親近感と接近をもたらしている,ということだそうです。
ロシアはともかく,日本に直接関係がありそうな中国のドイツへの接近については,以下の点をよく踏まえておくことが必要でしょうね。

p.218
繰り返すが,ドイツに屈服とも言える歴史認識を強いたのは,同国の過去の戦争犯罪の中心がホロコーストという,何人も肯定できない絶対悪,人道に対する罪だったからである。国際社会でまっとうな地位を回復するためにはドイツは謝罪するしかなかった。

p.219
一方で,歴史認識に関しドイツ知識人が抱く屈折した心理が存在する。第2次世界大戦後,ナチ・ドイツによる蛮行に対する国際社会の厳しい非難はドイツ知識人を苦しめたから,その心理的補償を得るには,「過去の克服」を徹底してそれを誇る,といった屈折した形をとった面があるのではないか。ドイツ語に「罪を誇る」(Schuldstolz)という言葉があるが,戦争に伴うすべてをドイツの責任として受け入れて謝罪することを続けるうちに,ドイツ人は,逆説的だが,過去の克服に関して,倫理的な高みを獲得したと信じ込むようになった。いわば「贖罪のイデオロギー化」が起こったのである。
そこに,日本が過去の正当化に拘泥することを倫理的に批判する,少なくとも主観的な優越性が生まれた。ドイツ人に対し,ドイツの過去克服の歩みが世界の模範であり,日本は邪悪である,と繰り返し語りかけることは,屈折した優越感をくすぐる働きをする。そこには,ナチズムの過去を糾弾され続けてきたドイツ人が,「道徳的に自分より劣った日本人」を発見して,バランスを回復する精神のメカニズムがあるのではないか。それは,素直にナショナルな感情を表出することをタブー視されてきたドイツ人がたどり着いた,屈折したナショナリズムの表現なのかもしれない。

死体は今日も泣いている 日本の「死因」はウソだらけ

死体は今日も泣いている?日本の「死因」はウソだらけ? (光文社新書)

死体は今日も泣いている?日本の「死因」はウソだらけ? (光文社新書)

図書館の書架でたまたま見かけ,以前友人のブログ記事に取り上げられていたのを思い出して,読んでみました。
法医学者が日本の異状死の取り扱いが先進諸国では例外的に”ゆるすぎる”*1ことを指摘(告発)している本なのですが,それはそのまま,日本は「なんちゃって法治国家」である,という痛烈な批判につながっていることが印象的でした。
長くなりますが,以下引用します。

  • 江戸時代からの「自白文化」

pp.150―151
日本の死因究明制度は,先進諸国と比べて非常にプリミティブ,かつ複雑です。その源をたどると,戦後どころか,江戸時代にまでさかのぼります。
江戸時代,死因の究明は中国古来の方法をまねて行われていました。すなわち,捜査は周辺の関係者や被疑者の供述を元に行われ,遺体は解剖などせず外表検査をするだけ。重要なのは自白であり,外表検査は供述が嘘か本当かを見抜き,自白を得るための手段という位置づけです。そして,自白が得られたら衆人環境の中で罰を与え,ほかの人が同様の罪を犯さないように見せしめにしたのです。
つまり,科学的な事実が先にあるのではなく,「犯人はこいつに違いない」というおかみの見立てが先にあって,それに沿って捜査が進められ,一見科学的らしく見えるようなことは,それを補完するためだけに使われたわけです。
明治になって,外国の脅威にさらされた日本は,近代的法治国家になることを目指して,西洋諸国から民法や刑法を輸入しました。その際に,のちに東京大学法医学教室の初代教授となる片山國嘉が,明治天皇の勅命を受けてドイツとオーストリアに留学し,日本に司法解剖の制度を導入しました。しかし,解剖に対する社会の無理解と法医学者の養成不足,実施可能な解剖数の制限から,死因がわからなければとりあえず司法解剖するヨーロッパのような制度とはならず,警察が犯罪性があるか疑う場合のみ司法解剖するという,現在まで続く異常な運営方法になったのです。

p.151
そもそも中国,あるいは江戸時代の日本の犯罪捜査の基本,自白第一主義のベースには,儒教の基本思想の一つ「徳治主義」があると私は思っています。

pp.151-152
おかみは徳が高くいつも正しいのだから,おかみが「おまえが犯人だ」と言えば,その人が犯人であることに間違いはない。犯人も,本来の性は善なのだから,おかみに諭されれば,罪を悔いて自分のやったことをすっかり白状するはずだという論理です。それに対して西洋からもたらされた「法治主義」とは,法によって国を治めることであり,性悪説に基づいています。為政者も嘘をつくことがあるし,間違えることもある。人民も嘘をつくし,間違えることもある。だから,すべての人に平等な法というルールを決めておきましょう,という考え方です。
「徳治・法治」「性善説性悪説」と並べて書くと,徳治や性善説の方が人に優しく,よいことのように見えます。しかし,そうでしょうか?本当に恐いのは,人の徳や善意という曖昧で恣意的なものをよしとし,それを建て前にして行動することではないでしょうか。ましてや,法治国家における刑事司法で,性善説など本来通用しないはずなのですが,日本は本当におかしな国です。日本は法治国家といいますが,法律を海外から輸入し猿まねをしただけのなんちゃって法治国家で,まさに「仏作って魂入れず」なのです。

  • 間違いがあってもフィードバックされない

p.153
日本では,理念なく行き当たりばったりに死因究明方法を独自に改変させてきた結果,「解剖や薬物検査を含む医学的な検査を最初に行ってから犯罪性の判断をする」という先進諸国のスタンダードとはかけ離れた死因究明方法を構築してしまい,迷宮から抜け出せなくなっているのです。

*1:警察による初動捜査で犯罪性なしと判断されたら,それ以上追及されない。そもそも,警察官は医学的に死因を判断する専門家ではないので,例えば,もしかすると自殺を装った殺人が行われていても見過ごされているケースがどのくらいあるのだろうか,と本書を読むとガクブル。

気づいたら先頭に立っていた日本経済

新着図書の棚で見かけて,タイトルにまんまと釣られて読んでみました。
ちなみに「先頭」というのは,”第1位”という意味ではなく,長期停滞する経済の”トップランナー(先行者)”という意味です。あんまり嬉しくないですね(笑)。
さて本書の内容は,そこまで楽観できるものかしら?と思いつつも,「遊民経済学」という独特のスタンスから放たれる言葉は,やわらか頭な感じです。
真剣に(熱心に)遊ぶということの価値と効用について改めて考えさせられました。
まあ肩肘張らずに気楽に読めばいいと思います。

p.16
そろそろ第3次産業を,楽しめるものとそうでないものに分類してみるといいのかもしれない。お役所仕事のように,しぶしぶ嫌々やらなきゃいけないサービス業を今までどおり第3次産業と呼び,お客さんがニコニコしているものを第4次産業と呼ぶことにする。そしてツーリズム(観光産業)やエンタメ関係,あるいはギャンブル産業なんかはこちらに分類することにする。この第4次産業を拡大していくと,経済活動のフロンティアが広がることになり,成長分野になっていくのではないだろうか。

p.29
思うにGDPという尺度は,一人あたりが1万5000ドルくらいまでは有効な指標であるけれども,3万ドルを超えたあたりから機能しにくくなる。3万ドルを超えて先進国になってくると,その国が目指す「豊かさ」は一様なものではなくなる。あくまでも所得の増大を目指すのか,それとも生活の質を求めるのか,国全体のインフラを重視するのか,あるいは環境との調和や個人の自由を求めるのか。それらは人生観や価値観によるものであり,それぞれの国民が選択すべき問題である。
特に日本の場合は,「高所得国の罠」といったら語弊があるけれども,20年くらい前から「さらなる豊かさを求める方向性」を定義できなくて困っているようなところがある。本当はそれがないわけではないのだが,もともとが貧乏性な国民なので,ついつい「おカネに換算できる価値」にこだわって苦労しているのかもしれない。

大学経営論 大学が倒産する時代の経営と会計

大学経営論―大学が倒産する時代の経営と会計

大学経営論―大学が倒産する時代の経営と会計

以前,『不正会計と経営者責任―粉飾決算に追いこまれる経営者―』を読み,公認会計士の職業倫理のあり方について論じておられるところにちょっと気になるところがあったので,この守屋俊晴先生のご本を他にも読んでみたくなり,何冊か借り出してみたうちの1つです。
本書の前半=第1部は,今どきの若者は~,少子化で大学の経営環境が~,等について色々な資料を引きながらガンガン語っておられます。
まあそこは他でも見られる言説なのですが,第2部の私立大学と国公立大学それぞれについての会計と経営についての解説は,まとまった形で読んだことがなかったので,大変面白かったです。
年末にお友達=地方国立大学に教員としてお勤め,とお話しているときに,国からの交付金が年々減らされつつあって,待遇が年々悪くなるし,これからもよくなる見通しはまずない・・・という話題になったので,(交付金が年々減っていくとしても,大学運営するお金は変わらずかかるわけだから)ついには学費を上げなくてはいけなくなるんじゃないですかね?そいうことは可能なんですかね?となったのですが,よく分からないねという感じで終わってしまったように記憶しています。
そこのあたり,ええっと思わる記述がありました。

p.237
国公立大学の授業料は施設(造営物)の使用料相当額とされている(昭和23年8月18日 自治省自治課長通知)。そのために,大学事業の主要な経費である人件費を学生などが納付する授業料・入学金などで回収(費用補償)することは考慮されていない。それを負担してきたのが国や地方(一般会計)である。新しい制度の下では,これらの経費(運営費)を補助するものを運営費交付金と称している。

と,いうことは・・・運営費交付金が減った分,学費を上げて人件費などに回す,ということは基本的にはしない(できない?)ということみたいですね・・・
運営費交付金が減る一方で増えない→最近あちこちで話題になっていた,人件費削るよ!(退職してもそのポストはもう新規採用しないよ!任期付だけ雇うよ!等)になるのは当然の帰結だわ,と納得しました。
この他にも,私立大学と国公立大学会計基準は異なっていて,作られる計算書類も全然違うので,単純に比較対象できないということもよく分かりました。
ざっくり自分的にまとめると,
私立大学は,株式会社のように利益を出して株主に分配するってことは目指していないけれども,基本金=土地や建物,当座のお金など大学事業を行うための基本的財産は自前で調達して,国からは補助金をもらうとしても(平均して支出の11%くらいみたいです),赤字が出て金詰りにならないよう自助努力で回していかなければならないよ,ということです。
企業会計とは色々相違点はあるけれども,元手は自分の責任で調達して,事業継続できるよう何とか回していかねばならないところは,同じだな,と思いました。
一方,国公立大学は,元手(=土地建物その他大学事業をやるのに必要なもの)は国もしくは地方自治体から出資してもらっているので,「資本金」といっても企業会計の「資本金」とは全く異なる性質であること。そして,事業を続けていくのに必要な支出の約半分が運営費交付金によるものであり,独法化したとはいえども,まったくの国・地方自治体だのみで建前=独法化して自律自主的にやっていく,と現実には大きな乖離があることが分かりました。

数理法務のすすめ

数理法務のすすめ

数理法務のすすめ

『数理法務概論』の訳者のひとりである,草野耕一先生が書かれた本です。
『数理法務概論』ではなるべく数式を出さないように書かれていましたが,本書はこれでもかこれでもかと数式が出てきます。
すでに,「まえがき」から強烈なカウンターパンチをかましてきます(笑)

法律学は長らく「文系」の学問として扱われてきた。そのために数理的技法を用いて法を語るもの(以下,「数理法務の徒」と呼ぶことにしよう)は斯界の異端者として好奇と懐疑の目に晒されてきた。やがて,数理法務の徒は,この世界を生き抜くためにある種の「処世術」を用いるようになった。「正義を数学で語ることは土台無理な話ですが」と前置きして自らを卑下し,「数学が分からなくても大丈夫です」といって数学嫌いな者たちに迎合し,ついには,数学者や経済学者の言説を紹介することで事足れりとして,彼らの知見と法律論との間隙を埋めようとする努力を怠るようになってきたのである。しかるに,私がハーバードの研究会で見たものは,そのような旧来のあり方と決別した新しい数理法務の徒の姿であった。彼らは,数理的分析こそが法律学のさらなる発展を期する最善の方法であることを確信し,それらの技法を究めることに情熱を傾ける者たちだったのである。
私は,彼らの志に共感し,その気持ちを一人でも多くの日本の法律家・法学生と共有したいと願った。本書は,その願いを胸に書きおろしたものである。

これまでのモヤモヤを晴らすように,数理法務の徒による数式の爆走が展開されます!(笑)
てか,ちゃんと説こうと思えば数式を出すしかないもんね。

しかし,一般的な法学の方が本書を読み通すことはかなり困難だと思われます。一応,仕事で「心理学統計法」などを講じている自分も,例えば統計分析のところでも,ああ難しい書き方をされておられるな~いや真面目に書いたらこうなっちゃうのは分かるんだけどさ~と思いつつ,統計分析以外の,例えば主観確率の章など,数式が多用されているところはページを繰って眺める程度で流してしまいました。
いやこれはしんどいです。
主観確率とかのことは,以前社会心理系の竹村和久先生による『行動意思決定論―経済行動の心理学』を呻吟しながら読み通したことがあり,まあ忘れちゃったけど一度頭の中にスジは通したからもういいや,と思ったので,本書では読めるところだけ読みました。

しかし,それでも色々と面白く十分な収穫がありました。そのひとつとして「非営利政策の必要性」です。
自分が以前ちょっとやっていた企業コンプライアンスに今までなかった角度の考え方を提供してくれるような気がします。
会社は株主価値を最大化するという基本規範のもとで動いている(動くべきである)。したがって,その基本規範がうまく機能しない事態があればそれを正すことが必要であり,わが国ではそのために様々な法制度を作っている*1
株主価値最大化という基本規範がうまく動いてゆくために様々な法律が作られているとすれば,法律を遵守していれば(=狭義の,文字通りの法令順守=コンプライアンス)それで全てオッケーじゃないか?
いやでも,法律が現実に追いつかない事態も考えられるわけで・・・そういう場合,会社のことを熟知している経営者が自発的に対策を講じた方がはるかに効率的に問題解決できるのではないのか?
で,ここでいう自発的な対策を,非営利政策,と呼ぶのだと本書で初めて知りました。
非営利政策には大きく分けて二つの方向性があるそうです。

  • ある事業をすることでマイナスの外部性(=公害など,他に迷惑かけている状態)が発生しているとしたら,その事業が利益プラスだとしてもやめる判断
  • その事業をすることで利益マイナス(赤字)だとしても,プラスの外部性が発生しているとしたら(伝統玩具の製作販売=日本文化の継承とか),その事業を続ける判断

これらの非営利政策は,広義のコンプライアンスに含まれると思います。
でも上記の2つとも株主価値最大化に反する可能性が高いですよね。さてどうするか,ということも本書に書かれています。その検討の結果も簡潔な数式にまとめられるところに落ち着いています。なるほどなるほど。

*1:例えば,独占禁止法とか。

脳病院をめぐる人びと―帝都・東京の精神病理を探索する

不思議な本でした。
大学図書館の新着図書棚でぱっとタイトル一瞥して,あ~精神病院の歴史みたいな感じのことが読めるかな?と目次も見ずに借り出してしまったのです。
確かに,本書の第1部明治時代から東京にぼちぼち出来ていったそれぞれの精神病院=脳病院の成立について書かれていましたが,第2部は,芥川龍之介太宰治高村智恵子など,精神を病み「脳病院」に入院した(させられた)文学者たちのエピソードだったのです。
興味深かったのは,それら文学者たちの”狂気”について記述する中で,フーコーのいうところの「「人間を魅了する」狂気という概念について痛烈に批判しているところでした(以下引用部の太字は本文では傍点)。

p.314
たしかに大著である『狂気の歴史』のいずれの章にあっても,フーコー狂気とは何かを直截的には定義しない。フーコーのいう狂気は反理性,あるいは理性の支配地域外にあり,つまりは理性によっては定義できない「何ものか」であるらしい。いや,「狂気とは何か?」を定義できるとする近代的理性の権力構造そのものをフーコーは標的とする。フーコーにとって狂気とは,近代社会が専横的に構築し,あるいは緻密に張めぐらせた制度なり法律なり言語空間といった「牢獄」から脱出するための回路であり,実際にニーチェゴッホアルトーは,この脱獄を実践したということか。このようなフーコーの立場は精神医学のみならず近現代における人間存在を射程としているわけで,何も精神科医だけが目くじらを立てる必要はなかろう。けれど狂気に関するフーコーの論及が,時に近代精神医学への憎悪と,狂気への礼讃に近いものを孕むのは何故なのか。

pp.314-315
狂気を征服しようとする近代理性が権力構造となり得るように,狂気もまた本来はひとつの権力,つまりは人間に本来的に備わった自然の一部であるということか。けれどすでに見たように芥川や宇野,辻潤,智恵子,太宰や中也らの狂気はその内因性・外因性・心因性の如何に関わらず,あるいは境界例であるか否かを問わず,結果として見るならば悲惨の極みであり,およそ権力などと呼ばれ得るものではない。さらに高村智恵子高橋新吉,中村故峡などに見るまでもなく,狂気はその近親者にもはかり知れぬ不安と苦痛を与えるものであることに対して,フーコーは何も触れない。

フーコーが言ってる”狂気”は甘美でロマンチックな感じみたいだけどさ,ほんま,精神病状態になったらマジシャレならないんだってば!!
訳分からんこと言って暴れるしホンマ迷惑なんだって!!
もうだからこれは脳病院に押し込めてどうにかしてもらわないとこっちの身がもたないというかヤバイんだってば!!
・・・と極めて乱暴に,まとめてみました・・・
あと,所謂病跡学について言及しているところも,痛快で笑ってしまいました(太字はlionusによる)。

p.251
病跡学とは一線を画すとする土井健郎の『漱石の心的世界』の精神分析学的な考察にしても,『行人』の苦悩する登場人物「一郎」を分裂病的であると推論するが,漱石からすれば「だから何なのか……」という感じではないか。問題は漱石が何故そのような分裂病質の人間を小説の中心に据えているのかであろう。そもそも文学とは,その時代その人間のなんらかの内面性の「傷」や「脆弱性」を扱う空間であって,その「傷」や「脆弱性」を媒介として時代なり人間なりの本質を描くものではないか。肉体的にも精神的にも「健全」「健康」な人間の心理など描いても文学的には退屈の極みであり,いや,そのような人間の心理が現代社会において「異常」であるという意味では,興味深い文学となるのかもしれない。

最後に,著者「エピローグ」を読んで,ああもしかすると君ここを読めと,本書と”目が合った”のかもしれないと感じました。

p.337
執筆にあたっての探索を続けるなかで,「自分がいかに何も知らないか」を痛感したことも,過去の二冊と同じである。精神医学は専門外と書いたが,もともと建築設計を本業とする私にとって,日本近代史も文学史も専門外であり,「生まれ故郷」として詳しいはずの東京のトポロジーやその来歴についてさえ,知らないことばかりであった。それは本書を書き上げた現在も変わらない。つまり私は近代精神医学という「森」や,日本近代文学史という「森」を抜けていく小道を散策したに過ぎず,どの「森」の道なき道へも深く分け入ったわけではない。
ではそういう私とは,どのような意味でも「専門家」でない私とは何者であるのか。言葉の正確な定義は措くとして,とりあえず「散策者」とでもしておきたい。何故ならば「散者」は事前に綿密な計画を立てるわけでもなく,興味の赴くままに歩き始め,行き先も定めず,あるいは場当たり的に寄り道を繰り返し,迷子になることも厭わない。いや,迷子になることも至上の愉しみであろう。

なお著者プロフィールには「一級建築士」で「現在、建築デザイン事務所を運営」とあります。仕事私事の合間を縫ってこういう御本を書かれるとは何とも奇特な方です。

知れば知るほど面白い阪急電鉄

知れば知るほど面白い阪急電鉄

知れば知るほど面白い阪急電鉄

大学図書館の新着棚で見かけ,おおと思って読みました。
阪急民必読の一冊です。
内容(もくじ)
第1章 阪急の全路線をとことん楽しむ!
第2章 鉄道による街づくりのお手本となった阪急の歴史
第3章 阪急ならではの合理主義が生み出した不思議や謎
第4章 京阪神をつないだ路線の駅は、さまざまな魅力にあふれている
第5章 伝統のマルーン色を堅持しつつも進化を続ける車両たち

見開き2ページ,1トピックで,図が多用されていて分かりやすく楽しいです。

個人的に本書を読んで認識が再構成されたことは,現在の阪急京都線は,昔から阪急電鉄ではなく,かつては京阪電鉄(天神橋~京阪京都=現大宮間)だったということです*1
何で阪急が天神筋橋六丁目(天六)に乗り入れてるのかなあ,と漠然と違和感があったのですが,普段使う路線ではないので,それ以上追求してませんでしたが,あ~もともとは天六~大宮という筋があって,それが十三にも乗り入れるようになって,さらに梅田に(終着・始発)という現在の形に徐々になってきたのね,と了解できました。
また,大宮駅が昔は栄えていた感があるのは,かつての京都線の終点で,そこから苦労して地下をえっちらおっちら掘り進んで四条河原町(河原町駅)まで辿りついたという経緯があるのね,とも納得しました。
ものを見て感じる「違和感」にはそれなりの理由がある,と実感できた一冊でもあります。

*1:戦時下に軍需産業以外の企業は強制的に合併してスリム化する国策で阪急電鉄京阪電気鉄道=現在の京阪電鉄が昭和18年に合併し,京阪神急行鉄道となった,らしいです。でも戦後また阪急と京阪に別々に分かれ戻ったが,そのときに京都線は阪急がゲットしたということらしいです。