大学経営論 大学が倒産する時代の経営と会計

大学経営論―大学が倒産する時代の経営と会計

大学経営論―大学が倒産する時代の経営と会計

以前,『不正会計と経営者責任―粉飾決算に追いこまれる経営者―』を読み,公認会計士の職業倫理のあり方について論じておられるところにちょっと気になるところがあったので,この守屋俊晴先生のご本を他にも読んでみたくなり,何冊か借り出してみたうちの1つです。
本書の前半=第1部は,今どきの若者は~,少子化で大学の経営環境が~,等について色々な資料を引きながらガンガン語っておられます。
まあそこは他でも見られる言説なのですが,第2部の私立大学と国公立大学それぞれについての会計と経営についての解説は,まとまった形で読んだことがなかったので,大変面白かったです。
年末にお友達=地方国立大学に教員としてお勤め,とお話しているときに,国からの交付金が年々減らされつつあって,待遇が年々悪くなるし,これからもよくなる見通しはまずない・・・という話題になったので,(交付金が年々減っていくとしても,大学運営するお金は変わらずかかるわけだから)ついには学費を上げなくてはいけなくなるんじゃないですかね?そいうことは可能なんですかね?となったのですが,よく分からないねという感じで終わってしまったように記憶しています。
そこのあたり,ええっと思わる記述がありました。

p.237
国公立大学の授業料は施設(造営物)の使用料相当額とされている(昭和23年8月18日 自治省自治課長通知)。そのために,大学事業の主要な経費である人件費を学生などが納付する授業料・入学金などで回収(費用補償)することは考慮されていない。それを負担してきたのが国や地方(一般会計)である。新しい制度の下では,これらの経費(運営費)を補助するものを運営費交付金と称している。

と,いうことは・・・運営費交付金が減った分,学費を上げて人件費などに回す,ということは基本的にはしない(できない?)ということみたいですね・・・
運営費交付金が減る一方で増えない→最近あちこちで話題になっていた,人件費削るよ!(退職してもそのポストはもう新規採用しないよ!任期付だけ雇うよ!等)になるのは当然の帰結だわ,と納得しました。
この他にも,私立大学と国公立大学会計基準は異なっていて,作られる計算書類も全然違うので,単純に比較対象できないということもよく分かりました。
ざっくり自分的にまとめると,
私立大学は,株式会社のように利益を出して株主に分配するってことは目指していないけれども,基本金=土地や建物,当座のお金など大学事業を行うための基本的財産は自前で調達して,国からは補助金をもらうとしても(平均して支出の11%くらいみたいです),赤字が出て金詰りにならないよう自助努力で回していかなければならないよ,ということです。
企業会計とは色々相違点はあるけれども,元手は自分の責任で調達して,事業継続できるよう何とか回していかねばならないところは,同じだな,と思いました。
一方,国公立大学は,元手(=土地建物その他大学事業をやるのに必要なもの)は国もしくは地方自治体から出資してもらっているので,「資本金」といっても企業会計の「資本金」とは全く異なる性質であること。そして,事業を続けていくのに必要な支出の約半分が運営費交付金によるものであり,独法化したとはいえども,まったくの国・地方自治体だのみで建前=独法化して自律自主的にやっていく,と現実には大きな乖離があることが分かりました。

数理法務のすすめ

数理法務のすすめ

数理法務のすすめ

『数理法務概論』の訳者のひとりである,草野耕一先生が書かれた本です。
『数理法務概論』ではなるべく数式を出さないように書かれていましたが,本書はこれでもかこれでもかと数式が出てきます。
すでに,「まえがき」から強烈なカウンターパンチをかましてきます(笑)

法律学は長らく「文系」の学問として扱われてきた。そのために数理的技法を用いて法を語るもの(以下,「数理法務の徒」と呼ぶことにしよう)は斯界の異端者として好奇と懐疑の目に晒されてきた。やがて,数理法務の徒は,この世界を生き抜くためにある種の「処世術」を用いるようになった。「正義を数学で語ることは土台無理な話ですが」と前置きして自らを卑下し,「数学が分からなくても大丈夫です」といって数学嫌いな者たちに迎合し,ついには,数学者や経済学者の言説を紹介することで事足れりとして,彼らの知見と法律論との間隙を埋めようとする努力を怠るようになってきたのである。しかるに,私がハーバードの研究会で見たものは,そのような旧来のあり方と決別した新しい数理法務の徒の姿であった。彼らは,数理的分析こそが法律学のさらなる発展を期する最善の方法であることを確信し,それらの技法を究めることに情熱を傾ける者たちだったのである。
私は,彼らの志に共感し,その気持ちを一人でも多くの日本の法律家・法学生と共有したいと願った。本書は,その願いを胸に書きおろしたものである。

これまでのモヤモヤを晴らすように,数理法務の徒による数式の爆走が展開されます!(笑)
てか,ちゃんと説こうと思えば数式を出すしかないもんね。

しかし,一般的な法学の方が本書を読み通すことはかなり困難だと思われます。一応,仕事で「心理学統計法」などを講じている自分も,例えば統計分析のところでも,ああ難しい書き方をされておられるな~いや真面目に書いたらこうなっちゃうのは分かるんだけどさ~と思いつつ,統計分析以外の,例えば主観確率の章など,数式が多用されているところはページを繰って眺める程度で流してしまいました。
いやこれはしんどいです。
主観確率とかのことは,以前社会心理系の竹村和久先生による『行動意思決定論―経済行動の心理学』を呻吟しながら読み通したことがあり,まあ忘れちゃったけど一度頭の中にスジは通したからもういいや,と思ったので,本書では読めるところだけ読みました。

しかし,それでも色々と面白く十分な収穫がありました。そのひとつとして「非営利政策の必要性」です。
自分が以前ちょっとやっていた企業コンプライアンスに今までなかった角度の考え方を提供してくれるような気がします。
会社は株主価値を最大化するという基本規範のもとで動いている(動くべきである)。したがって,その基本規範がうまく機能しない事態があればそれを正すことが必要であり,わが国ではそのために様々な法制度を作っている*1
株主価値最大化という基本規範がうまく動いてゆくために様々な法律が作られているとすれば,法律を遵守していれば(=狭義の,文字通りの法令順守=コンプライアンス)それで全てオッケーじゃないか?
いやでも,法律が現実に追いつかない事態も考えられるわけで・・・そういう場合,会社のことを熟知している経営者が自発的に対策を講じた方がはるかに効率的に問題解決できるのではないのか?
で,ここでいう自発的な対策を,非営利政策,と呼ぶのだと本書で初めて知りました。
非営利政策には大きく分けて二つの方向性があるそうです。

  • ある事業をすることでマイナスの外部性(=公害など,他に迷惑かけている状態)が発生しているとしたら,その事業が利益プラスだとしてもやめる判断
  • その事業をすることで利益マイナス(赤字)だとしても,プラスの外部性が発生しているとしたら(伝統玩具の製作販売=日本文化の継承とか),その事業を続ける判断

これらの非営利政策は,広義のコンプライアンスに含まれると思います。
でも上記の2つとも株主価値最大化に反する可能性が高いですよね。さてどうするか,ということも本書に書かれています。その検討の結果も簡潔な数式にまとめられるところに落ち着いています。なるほどなるほど。

*1:例えば,独占禁止法とか。

脳病院をめぐる人びと―帝都・東京の精神病理を探索する

不思議な本でした。
大学図書館の新着図書棚でぱっとタイトル一瞥して,あ~精神病院の歴史みたいな感じのことが読めるかな?と目次も見ずに借り出してしまったのです。
確かに,本書の第1部明治時代から東京にぼちぼち出来ていったそれぞれの精神病院=脳病院の成立について書かれていましたが,第2部は,芥川龍之介太宰治高村智恵子など,精神を病み「脳病院」に入院した(させられた)文学者たちのエピソードだったのです。
興味深かったのは,それら文学者たちの”狂気”について記述する中で,フーコーのいうところの「「人間を魅了する」狂気という概念について痛烈に批判しているところでした(以下引用部の太字は本文では傍点)。

p.314
たしかに大著である『狂気の歴史』のいずれの章にあっても,フーコー狂気とは何かを直截的には定義しない。フーコーのいう狂気は反理性,あるいは理性の支配地域外にあり,つまりは理性によっては定義できない「何ものか」であるらしい。いや,「狂気とは何か?」を定義できるとする近代的理性の権力構造そのものをフーコーは標的とする。フーコーにとって狂気とは,近代社会が専横的に構築し,あるいは緻密に張めぐらせた制度なり法律なり言語空間といった「牢獄」から脱出するための回路であり,実際にニーチェゴッホアルトーは,この脱獄を実践したということか。このようなフーコーの立場は精神医学のみならず近現代における人間存在を射程としているわけで,何も精神科医だけが目くじらを立てる必要はなかろう。けれど狂気に関するフーコーの論及が,時に近代精神医学への憎悪と,狂気への礼讃に近いものを孕むのは何故なのか。

pp.314-315
狂気を征服しようとする近代理性が権力構造となり得るように,狂気もまた本来はひとつの権力,つまりは人間に本来的に備わった自然の一部であるということか。けれどすでに見たように芥川や宇野,辻潤,智恵子,太宰や中也らの狂気はその内因性・外因性・心因性の如何に関わらず,あるいは境界例であるか否かを問わず,結果として見るならば悲惨の極みであり,およそ権力などと呼ばれ得るものではない。さらに高村智恵子高橋新吉,中村故峡などに見るまでもなく,狂気はその近親者にもはかり知れぬ不安と苦痛を与えるものであることに対して,フーコーは何も触れない。

フーコーが言ってる”狂気”は甘美でロマンチックな感じみたいだけどさ,ほんま,精神病状態になったらマジシャレならないんだってば!!
訳分からんこと言って暴れるしホンマ迷惑なんだって!!
もうだからこれは脳病院に押し込めてどうにかしてもらわないとこっちの身がもたないというかヤバイんだってば!!
・・・と極めて乱暴に,まとめてみました・・・
あと,所謂病跡学について言及しているところも,痛快で笑ってしまいました(太字はlionusによる)。

p.251
病跡学とは一線を画すとする土井健郎の『漱石の心的世界』の精神分析学的な考察にしても,『行人』の苦悩する登場人物「一郎」を分裂病的であると推論するが,漱石からすれば「だから何なのか……」という感じではないか。問題は漱石が何故そのような分裂病質の人間を小説の中心に据えているのかであろう。そもそも文学とは,その時代その人間のなんらかの内面性の「傷」や「脆弱性」を扱う空間であって,その「傷」や「脆弱性」を媒介として時代なり人間なりの本質を描くものではないか。肉体的にも精神的にも「健全」「健康」な人間の心理など描いても文学的には退屈の極みであり,いや,そのような人間の心理が現代社会において「異常」であるという意味では,興味深い文学となるのかもしれない。

最後に,著者「エピローグ」を読んで,ああもしかすると君ここを読めと,本書と”目が合った”のかもしれないと感じました。

p.337
執筆にあたっての探索を続けるなかで,「自分がいかに何も知らないか」を痛感したことも,過去の二冊と同じである。精神医学は専門外と書いたが,もともと建築設計を本業とする私にとって,日本近代史も文学史も専門外であり,「生まれ故郷」として詳しいはずの東京のトポロジーやその来歴についてさえ,知らないことばかりであった。それは本書を書き上げた現在も変わらない。つまり私は近代精神医学という「森」や,日本近代文学史という「森」を抜けていく小道を散策したに過ぎず,どの「森」の道なき道へも深く分け入ったわけではない。
ではそういう私とは,どのような意味でも「専門家」でない私とは何者であるのか。言葉の正確な定義は措くとして,とりあえず「散策者」とでもしておきたい。何故ならば「散者」は事前に綿密な計画を立てるわけでもなく,興味の赴くままに歩き始め,行き先も定めず,あるいは場当たり的に寄り道を繰り返し,迷子になることも厭わない。いや,迷子になることも至上の愉しみであろう。

なお著者プロフィールには「一級建築士」で「現在、建築デザイン事務所を運営」とあります。仕事私事の合間を縫ってこういう御本を書かれるとは何とも奇特な方です。

知れば知るほど面白い阪急電鉄

知れば知るほど面白い阪急電鉄

知れば知るほど面白い阪急電鉄

大学図書館の新着棚で見かけ,おおと思って読みました。
阪急民必読の一冊です。
内容(もくじ)
第1章 阪急の全路線をとことん楽しむ!
第2章 鉄道による街づくりのお手本となった阪急の歴史
第3章 阪急ならではの合理主義が生み出した不思議や謎
第4章 京阪神をつないだ路線の駅は、さまざまな魅力にあふれている
第5章 伝統のマルーン色を堅持しつつも進化を続ける車両たち

見開き2ページ,1トピックで,図が多用されていて分かりやすく楽しいです。

個人的に本書を読んで認識が再構成されたことは,現在の阪急京都線は,昔から阪急電鉄ではなく,かつては京阪電鉄(天神橋~京阪京都=現大宮間)だったということです*1
何で阪急が天神筋橋六丁目(天六)に乗り入れてるのかなあ,と漠然と違和感があったのですが,普段使う路線ではないので,それ以上追求してませんでしたが,あ~もともとは天六~大宮という筋があって,それが十三にも乗り入れるようになって,さらに梅田に(終着・始発)という現在の形に徐々になってきたのね,と了解できました。
また,大宮駅が昔は栄えていた感があるのは,かつての京都線の終点で,そこから苦労して地下をえっちらおっちら掘り進んで四条河原町(河原町駅)まで辿りついたという経緯があるのね,とも納得しました。
ものを見て感じる「違和感」にはそれなりの理由がある,と実感できた一冊でもあります。

*1:戦時下に軍需産業以外の企業は強制的に合併してスリム化する国策で阪急電鉄京阪電気鉄道=現在の京阪電鉄が昭和18年に合併し,京阪神急行鉄道となった,らしいです。でも戦後また阪急と京阪に別々に分かれ戻ったが,そのときに京都線は阪急がゲットしたということらしいです。

凹凸を楽しむ 大阪「高低差」地形散歩

凹凸を楽しむ 大阪「高低差」地形散歩

凹凸を楽しむ 大阪「高低差」地形散歩

ブログ「十三のいま昔を歩こう」の作者で「大阪高低差学会」の”おせわがかり”,でブラタモリの大阪編2本の案内係を務められた,新之介さんによる大阪高低差本です。
地図と写真がふんだんに盛りこまれた,大変読みやすい本です。
紙上で実際に現地を歩いているような気になり楽しいことこの上ないです。
実は最近,lionusは「高低差」目的ではありませんが,少彦名命という神様を追いかけていて,少彦名さんをお祀りする神社を見つけ次第,ぼちぼち回っています。
訪れた神社をGoogleのマイマップにプロットしていったところ,どうも昔の大阪(関西)の海岸線に一致するのではないか・・・つまり,今よりもっと海の水位が高かった縄文時代でも陸であったところに,少彦名命をお祀りする神社≒比較的に古い神社が建てられていた結果,そういう感じになったのではないか・・・ということで,今までは全然興味のなかった大阪(関西)の「高低差」にちょっと興味がわくようになったのです。

ところで,本書ではもっぱら大阪(付近)の「高低差」ですが,少彦名さん関連を追いかけているうちに,個人的に奈良が気になりはじめています。
海面が現在よりもずっと高かった縄文時代では,実は,奈良盆地大和川と海でつながった”水たまり”の低湿地であったということらしいです。
大和湖(奈良湖)
上記リンク先のページを色々見ているうち,昔の奈良って,今の地形からは考えられない方向で,交通至便なところだったのでは?という気になります。
どういうことかというと,現在の奈良市中心部は,奈良盆地の北のがくんと周囲より高いところにあり,南の”水たまり”から大和川を通じて現在の大阪方面へ行け,そのまま海へ出てゆけますし,また,奈良の北方向には山城平野―現在は陸地だがやはり”水たまり”・低湿地だった―を通じて京都方面へ出て行けるのです。
今は内陸の盆地である奈良が,水運で京都大阪どっちも便利だねの土地だったかもなんて!
奈良「高低差」の本も誰か出して欲しいなあ。

原節子の真実

原節子の真実

原節子の真実

大学図書館で新聞書評に掲載された本を集めているコーナーがあって,そこで”目が合って”お正月にぼちぼち読んでみました。
原節子ご本人は40過ぎで引退して後は隠遁生活を送っておられ,ご自分のことを語られる機会はほとんどなかったように,今まできいています。
本書で記されていることが「真実」かどうかも確かめる術はご本人が亡くなられた後,もはやありません。
が,「真実」かどうかは別としても,戦前戦後を国民的女優として生き抜いた一人の女性についての記録,として興味深く拝見しました。
読んでいてへえと思ったのが,戦前~戦後しばらくの,女優の社会的地位の低さ。
所謂”水商売”系(当時の芸者さんとか)よりもさらに下に見られていたとは,驚きでした。
今の感覚で昔を捉えることはできない例の一つとして,本書で書かれる女優原節子の苦闘の様を拝見しました。

私の日本地図12 瀬戸内海 IV 備讃の瀬戸付近

瀬戸内海シリーズの4冊目,これが最後です。

p.45
海の中の島というものは,陸地の村とちがって,外の世界と思いもそめぬような糸でつながっているものだ。

p.45
どうして昔の藩の境をこえてこのような人の結びつきがあったのであろうか。船の往来の途中でおこった人間関係であるに違いない。

寺の過去帳から,ええこの人が遠く離れたこの島から?とかの驚きです。
島=離島,って互いに離れているけれども海でつながってるもんね。船があればすいっとワープできるよね。陸のような関所もないし(多分ポイントポイントにそれに類似したものはあるにしても陸の関所を越えるよりは容易では?)。

pp.159-160
せまい水道をぬけて海がやや広くなるところに砂洲が突き出ていて,その砂洲の上は松原になっている。そしてその松原の中に社がある。こういう風景に接すると心をうたれる。もしここに社がなければ,ここに家が立ちならんでいたであろう。こういうところを聖地として神を祀ったが故に自然が残ったのだと言っていい。今,日本のうちで人の住むところに多少とも自然らしいものの残っているのは,たいていそこに神がまつられている。神がいなければ,日本では人の住むところに自然がのこらない。
そのことは日本の都会の一つひとつをとりあげて見るとよくわかる。人間の住むところに人間の意志のみの力によって緑地をのこすことのできないのが日本人ではなかろうか。

うんうん。
でもそれさえも都市部では難しくなっています。神社の領域がマンションに侵食されていくなど。

pp.257-258
東瀬戸内海の旅をふりかえってみると,昭和12年のアチックミューゼアム調査団の一行に参加したのを除いて,私なりに何らかの目的をもっていた。漁業制度改革にともなう漁業および漁村の現状と,それがどのようにかわってゆくであろうかということを見ようとしたたび,離島振興法という法律が島の人たちにどれほどの救いになっているか,またなっていないか,あるいはまた製塩が沿岸の人びとにとってどのような支えになっているか,というようなことを少しでもたしかめたいと思ってのことであった。
しかもそれぞれの地域社会に生きている人たちは,みな精いっぱいに働き,自分たちの生活を守ろうとしてきていたといっていい。にもかかわらず,周囲の状況の変化が,その生活をつきくずしていた力が実につよい。
周囲の力は資本主義的な発展といってもよいが,それらが地域社会の人びとの生活に有利に,あるいは幸運に働きかけた例はきわめて乏しい。ひたすらに一応安定していた生活をつきくずし,解体し,資本主義体制の中へそのバラバラにしたものを吸収することで終結している。地域社会の一般民衆が生きのびるために勤勉にならざるを得なかったこと,また生きのびるためにふるさとを捨てざるを得なかったことを,それぞれの地域社会の中に見つけて,これでよいのだろうかと暗然となってくる。その象徴を室津の高畠さんの家に見る。資本主義的発展は室津の港の歴史を語るこの家を朽ちさせてしまうことはしても,これを守ることはできないのであろうか。