阪急沿線ディープなふしぎ発見

図書館の新着図書で見かけたので,阪急民としてつい手にとってしまいました。
検索してみると,この著者は本書の前にこちらも監修されているし,他にも,同じシリーズで関西私鉄=京阪,近鉄,南海についても監修されているようですね。
巻末掲載のプロフィールを見ると,「京都大学大学院人間・環境学研究科博士前期・後期課程,および同研究科助手を経て,現在は同志社女子大学教授。地理学,観光学,地域開発について研究。」とあり,趣味と仕事=研究が渾然一体となってこういう本になったのかな?と思います。
ディープな鉄な人には「そんなの知ってるよ」的なネタばかりかもしれませんが,阪急沿線の一般人には「へえ~」なお話がコンパクトにまとめられていて楽しいです。
本日阪急電車に乗って出かけることがあったので,その行き帰りに読みました(笑)。

工学部ヒラノ教授のはじまりの場所―世田谷少年交差点物語―

工学部ヒラノ教授シリーズの最新作です。お元気で執筆を続けられているようで,何よりです。
ヒラノ教授が東大に入学する前の,中学校高校時代の愉快でかつハイレベルな仲間たちのお話です。

京都を学ぶ【洛北編】―文化資源を発掘する

京都を学ぶ【洛北編】: 文化資源を発掘する

京都を学ぶ【洛北編】: 文化資源を発掘する

図書館の新着の棚で見かけて,何となく読んでみました。
複数の研究者がそれぞれの分野から「洛北」について書かれているもので,ややかたい内容ですが,「納豆餅」の由来話は面白かったです。
また,本書のカラー中表紙として『新撰増補京大絵図』貞享3(1686)刊 が載っていて,その存在を知ることができたのもよかったです。
この絵図は国立国会図書館のデジタルアーカイブで,インターネット上で無料で見られます。すごい。
国立国会図書館デジタルコレクション - 京大絵図

さて「納豆餅」とは,「洛北」の山間部,京北・美山・日吉東部で食べられているもので,丸餅に納豆をはさんで半月状に折って食べるものだそうです。
筆者はこの「納豆餅」について「宮中雑煮」に起源をもつものではないかと考察しています。長くなりますが,以下本書記述を抜粋します。

p.203
京都では,1700年代初め頃から雑煮祝いが儀礼化していった。年初,一家の主人か長男が汲んだ若水とおけら火(大晦に八坂神社でもらう浄められた火種)で,稲魂が宿る丸小餅と冬野菜を煮て,雑煮を作り,年神様と家族が分かち合って食べる。そのため,雑煮箸は両細になっており,一方は人,もう一方は神様が食べる神人共食用になっている。

p.203
その雑煮は白味噌仕立てであるが,白味噌は戦国時代末期か江戸時代初期にはあったと言われている。

p.204
では「儀礼化」が起こる前の雑煮はどのようなものであったのか。一つ考えられるのは,宮中雑煮である。宮中では,二段重ねの鏡餅が飾られ,その鏡餅の上には,「葩(ルビ:はなびら)」と呼ばれる薄く円い白餅が十二枚,さらにその上に赤い小豆汁で染められた菱餅が十二枚載せられていた。その「葩」が,公家のほか,雑色といった下級役人にまで配られたのである。そのとき,葩の上にひし餅を載せ,ごぼうを載せ,味噌をつけて,配られたという。それをその場で半月状に折りたたんで食べ,酒の肴にした人もいれば,それを持ち帰る人もいたようである。煮てはいないが,宮中の雑煮とはこのようなものであり,それは「包み雑煮」とも呼ばれていた。そしてその半月状に折りたたんだ形のものが,今も裏千家の初釜で出される「花びら餅」である。

さらに,その持ち帰り硬くなった「包み雑煮」を湯で煮て食べたのではないかと書かれています。
一方,京都北部の篠山市東部や京丹波町では正月の集まりで,白味噌を丸餅に塗って半月状に閉じて食べるということにも言及。

p.206
では,「餅味噌雑煮」を食べる人が見られる京丹波町や洛北地域に取り囲まれるようにして,「餅味噌雑煮」と全く似ていない「納豆餅」を正月三が日に食べた人が京北・美山・日吉東部とその周辺地域で見られたし,今も見られるのはなぜか。そして「納豆餅」はなぜ半月状をしているのか。
それは,「包み雑煮」に似た「味噌餅」が「餅味噌雑煮」に取って代わられる前に,あるいは取って代わられようとしたときに,「味噌餅」の味噌が納豆に置き換えられたからではないか。

ほうほう。でもなぜ味噌が納豆に?

p.207
(京北・美山・日吉東部は)
山がちの冷涼な気候のところであり,裏作で作物を作るのが難しく,農業生産高が多くない地域である。これらの地域は木材や薪や炭を売って生計を立てていたのであるが,食料に関しては,他地域からかなりの量を買わなければならなかったはずである。それゆえこれらの地域では,炭水化物だけでなくタンパク質や脂質を多く含む大豆が,きわめて大切な食料であった。

山の斜面でも畑を作って栽培できる大豆な貴重な食料源になっていたけれども,大豆はそのままでは硬く消化に悪い→豆腐で食べる?(食べられる割合が少なく効率が悪い)→味噌にする?(麹を作るのが面倒,当時高価な塩も必要)→納豆なら,麹も塩も要らず,ワラさえあればできる。

p.208
自分が住む地域が納豆作りに適していることに感謝して,「納豆」を作り,「味噌餅」の味噌を納豆に置き換え,「納豆餅」にして,正月三が日に食べるようになったとしても,不思議ではない。

ふむふむ。
「納豆作りに適している」→冷蔵庫とかなかった昔は,ある程度冷涼でないと納豆作りできなかった。

他方,近くの篠山市東部や京丹波町でも良質の大豆が取れるのに納豆(納豆餅)が広まらなかったのか?→丹波杜氏の歴史があり,麹の扱いに慣れていたからではないか?それに,甘味が貴重であった当時は,白味噌の持つ甘さも魅力だったかも,と考察されていました。

危機の心理学

危機の心理学 (放送大学教材)

危機の心理学 (放送大学教材)

放送大学授業「危機の心理学(’17)」のBS放送を録画していたものを数日かけて一気見しました。
www.ouj.ac.jp
災害等,「危機」とされるものに関する心理学的知見を整理されていて参考になります。放送大学の教科書もあわせて目を通してみました。

NHKスペシャル 原爆死 ~ヒロシマ 72年目の真実~

www6.nhk.or.jp

番組内容参考:

「原爆死ヒロシマ72年目の真実」〜核兵器がもたらす余りにも残虐な死の実態を改めて突き付けている/Nスペ 仁王像

8月6日に放送されたものを録画して視聴しました。以下1度通しで視聴しただけの印象で書いていますので,大雑把な記述になっています(悪しからず)。

”ビックデータ”と番宣では言っていましたが,原爆死者の検視記録等が広島市や広大関係(多分)の努力によりコツコツとデータベース化されたものを可視化したという感じで,何か高度な分析集計をしたという印象は受けませんでした。

しかし,いずれにしてもデータを可視化したおかげで,原爆死の実像を再確認していくつかの新たな知見(実証データ)を引き出すことことができたのは意義があったと思いました。

番組内容の要点は,上記リンク先にありますが,自分的に印象に残ったポイントなど:

-聞き慣れない死因ー圧焼死

要するに,倒壊建物の下敷きになって生きながら焼かれたということです。

事例として,広島女学院の講堂で崩れた建物の下敷きになったお友達を声がするのに瓦礫をどうすることもできず,火事が迫ってきてそのままになってしまった方が証言されていました*1

-原爆特有の熱傷

2年前の同じく8月6日のNHKスペシャル「きのこ雲の下で何が起きていたのか」

www6.nhk.or.jpで,2千度(?)の熱線で皮膚を焼かれるというよりも,表皮を一瞬にして”蒸発”されて剥がされたこと,そしてごっそりと皮膚を剥がされ組織が露呈すると耐えがたい激痛にみまわれること,などが明らかにされていましたが*2,今回のNスぺではさらに新しい知見が出されていて,衝撃でした。

熱線=強いエネルギーをもった光線を皮膚に当てると,皮下にある血管内の血液が一瞬にして”蒸発”し,血管が破裂,同時に皮膚組織も崩壊し脱落するという,通常の熱傷とは異なる機序があったのではないかという,熱傷の専門家の解説があったのです。

原爆による火傷は治りにくいということを聞いていましたが,ああなるほど,通常の熱傷とはかなり違い,(栄養を供給する)血管ごと根こそぎ組織を破壊する故にもっとひどいことになる(回復がより難しい)のだなと素人的にも分かりました。

皮膚は外界に対するバリアーの役割をもっていますが,その皮膚を原爆特有の根こそぎ組織なくなる破壊を受け,ノーガードになった結果,前述の通り激痛に加え,容易に全身的に感染症にかかり,臓器のあちこちがやられて徐々に死に至る,ということです。

まさに拷問です。

-内部被曝と「黒い雨」によるホットスポットの存在可能性

番組によると,爆心から2.5キロ以遠は放射能による直接的な健康被害ないと国はいっているようですが,2.5キロよりも遠い地点で被爆したにもかかわらず,その後原爆症で死亡したとみられるケースが多いことが指摘されていました。まあ要するに,原爆投下間もなく,爆心地に入って放射能を含む塵等を吸い込み,結果として内部被曝した人が結構いたのではないかという指摘です。

また,爆心地からまあまあ離れていて直接被害を受けなかったが,その後に降った所謂「黒い雨」による放射性物質の降下と蓄積により,「ホットスポット」化していたのではないか&「ホットスポット」による原爆症死?という,己斐町のケースが紹介されていました。

以上,以前から指摘されていたことも含まれるのですが,原爆死のマッピング(可視化)により,やっぱりそうだったんじゃないか,とちゃんと言えるようになることは非常に重要なことではないかと思いました。

*1:こんなこと,自分だったらとてもテレビの取材で話すことができない,と感じましたが,72年目になって,もう自分もじきに死んでしまうだろう,という頃になってはじめてお話しするお気持ちになったのかなと思いました。

*2:あまりにも凄惨な内容だったので,今でも怖くて録画を見直せません。

生命・人間・経済学 科学者の疑義

生命・人間・経済学 科学者の疑義

生命・人間・経済学 科学者の疑義

『科学者の疑義--生命科学と経済学の対話』(1977年、朝日出版社刊)の復刻版です。
復刻と知らずに本書を読んでも,まず違和感がない(最近の対談本)と思うほど,現在でも通用する内容であることにびっくりします。
福島智東京大学教授による下記冒頭解説の通りです。

p.14
「予言書」の側面は,とにかくすごい。出版から8年後の電電公社のNTTへの民営化,10年後の国鉄からJRへの民営化,そして27年後の国立大学の法人化,などなど,ほとんど見通している。
この他にも読者は,本書のなかに見いだされる現在に通じる問題提起や指摘の多さに驚愕するだろう。

一読しての驚愕内容は色々あるのですが,
経済学(新古典派経済学)が,個人を「孤立した形で存在している」ものとしてとらえ,個人の行動は他に何の影響も及ぼさないし,他からも受けないということを前提としている,ということに軽く衝撃を受けました。
言われれば確かにそうだったかと思うのですが,

p.222
渡辺 僕らみたいな素人から見ると,新古典派では各人のあいだの相互作用はないとしてしまうわけね。という意味ではそれは「理想気体」を考えているわけで,人間社会では本来成り立たない架空的なことを考えている。それでも架空の経済学は成り立つわけね。それが現実の人間社会に適用できる経済学であるかどうかは別問題として,それはある意味では,一つの基礎的な経済学としては成立するけれども,現実のわれわれの人間社会に適用できるかどうか,はじめから非常に疑問な経済学だったってことですね。

という感想は私も同じです。

なんでもかんでも金銭的価値で捉えていく考えで戦後~高度経済復興を通り抜けたけれども,豊かな生活というのは実は幻想で,実のところ我々の生活は”貧しく”なってなくない?という1977年当時の問いかけは,ちょうど40年目の今でも全く有効です。重たいです。

p.256(宇沢)
費用はかからなくて,しかも文化的に豊かな生活を営めるような社会が望ましいという自明なことを再確認しておきたいと思います。

いやいやほんとに。

あと長くなりますが,大学についての記述を引用しておきます。こちらもいやいやほんとに。
なお東大(をはじめとする国立大学)についての言及はずっと昔のことで,独法化して国から基本的にもらえるお金が毎年ちまちまと減らされている現在,もはや「粗末な建物で」「みんなが火鉢を囲みながらやっている」状態になるのも遠い将来ではないかも・・・それもおカネが万物の尺度となっている現代社会の行き着く末であると本書では読めます。

pp.61-62
宇沢  たとえば東大なら東大が,もっと粗末な建物で,みんなが火鉢を囲みながらやっているならば,世間も認めると思うのです。しかし現実にはかなり立派な建物で,学生も快適な環境を享受し,しかも最近は非常に所得の高い家庭の子供でないと入れないような具合になってきた。教官のほうもそういうところで,何千億かかっても国はわれわれの研究費を出すのが当然であるというふうになっている。自分のやっていることがそれほど社会的に有益であるかどうか。僕にはそれだけの自信がないのですけれども。
渡辺  明治時代の旧帝大は,ああいう形で学問をつくり上げることが,ある程度必要だったと思いますが,いまの大学は社会でよい地位を得るための機械に堕してしまっていますね。いまは必ずしも国立大学に才能のある人が入っているとは限らないし,たとえば東大に入るのには家に財産があって子供のときからそのための教育をしておかなければ入れない。
宇沢 知性をこわすような形での受験勉強をですね。
渡辺 だから大学はもう本当の意味での知的な場所ではなくなっていますね。
宇沢  知的な修練を積んで人間的な成長の契機とするような意味合いはなくなっています。そして,そういう意味で知的ではない学生が卒業して,しかし彼らに社会的な特権が与えられる。
渡辺  科学者の社会的責任を考えるうえでも,それが問題ですね。本質的に知的でない人たちがどんどん学者になって,そういう人で大学が占められる可能性も大きいわけです。医者として人間的に好ましくない人が医者になりつつある傾向が見えているけれども,それと同じで大学人にふさわしくない人が大学を占領しそうになっているのが現状じゃないかな?本当に知的な人は大学に入れないものね。
宇沢  大学に入るには,人間の知性と創造性とを徹底的に痛めつけなければなりませんからね。また,それに耐える従順性が要るわけです。受験制度というのは,子供を心理的に殴りつける。殴りつけておいて,その治療に当たるようなものを―たとえば塾といったものを―受けなければならないような心理状態に追いやっている。

教師の資質・能力を高める! アクティブ・ラーニングを 超えていく「研究する」教師へ ― 教師が学び合う「実践研究」の方法 ―

「研究する」教師へ,というタイトルが気になったので手に取ってみました。
「研究」とは教育実践研究のことであると了解できました。
「専門職」としての初等中等学校教員,それらの専門性とはどこにあるのかということを時々考えます。
児童生徒への指導力だ,教科の指導力だ,色々挙げられると思いますが,勉強すること,向上することを忘れてしまった(止めてしまった)教員はもはや教員ではないとlionusは思っています。
確かに,本書では初等中等の教員が学び続ける実践について様々な事例が読めました。
そして,そのような実践の基礎には,日本の教師たちの実践研究文化があったことが「第1章 日本における教師の実践研究の文化 ――「研究する」教師たち」を読むと分かります。

p.11
斎藤喜博大村はまといった著名な実践家の一連の著作は,実践記録という域を超え,いわば「求道者としての教師」の道を説く側面をもち,良質の教育思想や教育理論のテキストでもあった。

「求道者としての教師」,なるほど。
しかし,最近の「実践的指導力重視の教師養成改革」→「即戦力重視へと矮小化」→「自らの実践の意味を,学習指導要領などからの借り物の言葉でしか語れなくなってしまってはいないだろうか」(p.11)とも,現在~未来についての懸念も表されていました。
その懸念については,「第4章 研究する教師を支える組織やシステム」の「3 行政による研修とネットワークのデザイン――和歌山県教育センター学びの丘の取り組みから」という事例において,「人口減少」と「年齢構成の変化」を背景にした問題意識・・・採用数が少なかった世代→少数派,少数なのに採用後10年目に入ると,中堅役割負担は変わらないので一人当たりの負担感大,世代間伝達の断絶,という問題を乗り越えようとする取組みを読んでより実感をもって迫ってくるような気がしました。
かつては現場の教師間で機能していたインフォーマルな”学び合い””助け合い”の文化が崩壊しつつあるのではないか,何かしらそれを復活・促進するための仕組みを作っていく必要性があるんだろうな~と拝読して感じました。