裁判の非情と人情

裁判の非情と人情 (岩波新書)

裁判の非情と人情 (岩波新書)

元裁判官で現在は法科大学院教授をされている方が書かれた本です。元は雑誌コラムだったそうで,気楽に楽しく読める内容でした。
この2月から3月にかけて,ひとつの裁判員裁判を連続して傍聴してみたlionusにとっては,うんうん,事実ならず「裁判は小説よりも奇なり」だよね,と読みました。
色々面白かったのですが,中でもへぇと思ったのが:

p.58難しい数学や物理が出てくる事件もなかにはある。普通の裁判官の理解をはるかに超える事件である。
私が控訴審で主任として担当した新四ツ木橋事件では,座屈という現象について,土木工学上の最高レベルの知識が必要であり,その理解には,博士論文のテーマに匹敵する最高の能力が必要であるといわれた。

ええー裁判官は”文科系”だから数式とか物理学とかわかんないよ~どーしよーかと思ったが・・・

p.59
しかし,記録を読み込んでいくと,不思議と霧の中に一筋の水路が見えてきた。刑事裁判で求められているのは,技術的な判断そのものではなく,法律的な判断である。法律家に求められているのは,物理的に難解な現象の仕組みの理解ではなく,そのような現象が起こることが当時の科学の水準で予測できたかなのである。法律的には予見できたかということである。これは立派な法律問題であり,裁判官にもできることだ。

「予見できたか」の法律的判断・・・は何となく分かるような気がするけれども,

p.60 裁判の諸分野でも,たとえば,知的財産では,特許の対象となる事象自体,裁判官の理解を超えるものが多いであろう。一度,親しい同期の知財事件を扱う部の部長に,本当に理解できるのかと不躾なことを聞いたことがある。彼は,率直に,最初は何が何だかわからない状態であるが,そのうち,わかってくるようになると言っていた。上記のように法律判断と技術自体との理解とは別物だからであろう。

やっぱり,「わかってくるようになる」というのはどういうことなのか,分からないなあ。
気になります。