宝塚という装置

宝塚歌劇について、複数の筆者が論ずるという論文集です。
普段あまり読まない、文学部チック、社会学部チックな内容でしたが、なかなか面白いものがありました。
最もほうほう!と思ったのは、「タカラジェンヌの四層構造」です。
タカラジェンヌは「役名の存在/芸名の存在/愛称の存在/本名の存在」の四層構造になっている、という指摘で、
まず「役名の存在」と「芸名の存在」が「舞台上の存在の二重性」だといいます。

p.18
宝塚歌劇団の演出家である小池修一郎は、「宝塚」の男役たちは芝居で男性の役を演じる際、その役柄の行動様式を使って、「生身の人間でなくて、カッコイイ、架空であり、かつ自分が芸名で名乗っている何とかという男役を演じたい」のであり、「これは一般の俳優が役を演じるっていうこととは実は一八〇度違うことだと思います」と述べている。
p.18
「宝塚」では物語の登場人物を演じることを通して、自分の芸名と結びついた男役/娘役像を作り上げることが重視されている。
p.21 このように「宝塚」の舞台上のタカラジェンヌは、上演される作品の登場人物と、作品から自律して作品を横断する、芸名で名乗る男役/娘役の二重性をもっていることになる。そこで、以下では前者を「役名の存在」、後者を「芸名の存在」と呼びたい。

さらに「愛称の存在」と「本名の存在」は「舞台裏の存在の二重性」であり、このあたりが”宝塚”にあまり知識のない人間には見えない構造だったな~と思いました。

p.22
宝塚歌劇団では、「清く正しく美しく」「夢を売るファミリー」といったイメージを守る形で、役者の情報や言動が「すみれコード」と呼ばれる暗黙のルールに規制されている。宝塚歌劇団は役者が仲間内で呼ばれている愛称を公表する一方で、役者の本名は講評しないことに象徴されるように、舞台裏のタカラジェンヌには、ファンに公開されている素顔と、ファンに非公開の素顔があるのである。
p.23
「宝塚」の特徴は、タカラジェンヌの素顔には隠された部分があることが、ファンに対して隠されていないことにある。
p.23
ファンに公開されたタカラジェンヌのオフの姿は、彼女の「現実生活の一市民」としての側面を抑えて作り出された「タカラジェンヌとしての<私>」なのであり、そのことはファンも了解している。以下では、このファンに見せているタカラジェンヌのオフの姿を「愛称の存在」、ファンに対して公開していないオフの姿を「本名の存在」と呼びたい。

四層構造があって、最もベースとなる「本名の存在」は隠されている、見せない、見ない、というルールの存在が、宝塚歌劇団を特異的な存在にしているポイントのひとつであると気づくことができ、この四層構造をフィルターにすると、色々見えてくることがあるのではないのかな、と感じました。