英語と日本軍―知られざる外国語教育史

旧日本軍の将校等を育成する学校において外国語(英語中心)がどのように教育されてきたかについて、まとめてある本です。
日本の外国語教育は幕末、沿岸に外国の船がちらほら来るようになり、それに対抗する(国防)必要から、オランダ語以外も知らなければいけないということから始まり、開国後は、軍隊の西洋化(近代化)のためにフランス語などの理解習得が求められ、さらに国際社会への参加や敵情(仮想敵国も含む)を知るために外国語の必要性が一層高まり・・・といいった流れだったことが分かりました。

本書の面白いところは、旧日本軍、特に陸軍のドイツ(ナチス・ドイツ)の過大評価と、(太平洋戦争で対戦することになった)イギリス・アメリカの軽視はどこから起こったのかについて、ひとつの視点を提供しているところです。

pp.20-21
特に陸軍の中枢幹部を多く輩出し幼年学校では、日中戦争に至るまで外国語教育をドイツ語・フランス語・ロシア語のみに固定していたために、その後の軍事戦略上もっとも必要とされた英語をなかなか導入できなかった。そのため、大半の幼年学校出身者は士官学校や大学校へ進んでも英語を学ぶことができなかった。そのため、大半の幼年学校出身者は士官学校や大学校へ進んでも英語を学ぶことがなかった。その問題は、1941(昭和16)年に日本が南進政策に転じて、アメリカやイギリスと直接対峙するようになると致命的になった。英語を知らず、英米情報に疎い陸軍中枢幹部らが戦争を指揮することになったからである。

陸軍幼年学校から陸軍士官学校陸軍大学校の超エリートコースを進んだ層は、陸軍の中枢を占めていたが、英語を習っていなかった、とありますが、
そもそもそうなった背景として

p.121
陸軍は幼年学校の独自性を強調し、これを存続させる根拠として、中学校では履修できないドイツ語・フランス語・ロシア語などの軍事的重要性と、年少時より語学学習を開始することのメリットを挙げた

第一次世界大戦後の世界的な軍縮の動きと、関東大震災の復興費用捻出の必要から、陸軍幼年学校がリストラされそうになったので、いやいやいや、普通の中学校と違ってウチらはドイツ語・フランス語・ロシア語を教えているし、ロシアは仮想敵国として、ドイツ・フランスは陸軍の先輩として、それらの国の言語を学ぶのはすごいすごい大切でしょ!だから幼年学校は必要だ!リストラ反対!とか主張して、(英語でなく)ドイツ語・フランス語・ロシア語を教え続けていたらしいです*1
幼年学校エリートはドイツ・フランス・ロシアのどれかを学び、より上位の学校に進んでも引き続き同じ言語を学び続け、その中でも成績優秀者は将来の幹部候補として、選修した言語に対応した国に留学等で派遣されたそうです。

p.187
 幼年学校の出身者の中でも、特にドイツ語班出身の者が陸軍の最エリートを構成した。彼らのうち成績優秀者は陸大にまで進み、卒業時の優等生に与えられた留学の行き先はドイツが33%と断然一位を占めていた。こうしてドイツ語選修者でドイツ留学組が陸軍内で最大勢力を誇るようになった。陸軍兵務局長などを歴任した田中隆吉(少将、陸士26期・陸大34期、1893~1972)は、首相となった東條英機が周囲を幼年学校のドイツ語班出身者で固めたと証言している(『日本軍閥暗闘史』135頁)。

上記のように、それらの成績上位→留学派遣組(幹部候補生)の多くは、幼年学校出身のドイツ語選修者で占められ、その結果、旧日本軍(陸軍)の中枢にはドイツ(語)閥ができてしまった、と著者先生は書いておられます。

pp.189-190
 いずれにせよ、陸軍の長エリート幹部たちは幼年学校や士官学校で英語を学ばなかった。イギリス・アメリカ圏に留学する者もほとんどいなかった。一方、少年時代からドイツ語を学んだ東條英機大島浩らはナチス・ドイツに心酔し、過大評価した。こうして彼等は国際情勢を見誤り、イギリス・アメリカの真の姿を知らないまま太平洋戦争に突入していった。ここに、国家としての長期的な外国語戦略とインテリジェンス戦略の脆弱さを見ることができる。

一方、イギリス海軍を範として作られた旧日本軍の海軍は、配下の学校ではもっぱら英語を教えており、さらに読解中心(教養的)というより、オーラル・メソッドに基づいた言語運用能力に重きをおいた教育方法をとったと本書ではまとめられています。
とはいえ、海軍も特定の言語に特に傾斜していたという点では、陸軍と変わりはないのでしょうが、海軍は英語=言葉だけでなく、イギリス・アメリカ的な現実的・合理的な考え方も言語の学習を通じて身につけていたのかな?と思わせられる面もあります。
著者先生は、そのようなことは書いておられませんでしたが、本書では海軍は敗戦後の国のたてなおしを見据えた学校戦略をとっていたと考えられることが書かれていて、その深慮遠謀に少し驚きました。

p.234
 陸海軍の幹部養成学校に集められていた優秀な若者たちも、敗戦とともに無傷のまま戦後社会に送り出されていた。すでに連合艦隊が壊滅し、航空戦力が絶望的な状況になっていた大戦末期に、敗戦を自覚していた海軍首脳が戦後復興のための指導的人材の養成を文部省に代わって引き受け、意図的に温存したという証言もある。海軍兵学校校長だった井上成美は、在任中に年限短縮と軍事学の重点化に反対し、英語を含む普通学に比重を置いた。戦後になって、井上はその真意を教え子たちにこう語った(前掲『井上成美』407頁)。
***
戦争だからといって早く卒業させ、未熟のまま前線に出して戦死させるよりも、立派に基礎教育を今のうちに行い、戦後の復興に役立たせたいというのが私の真意でした。
***

p.235
 このように、敗戦を予測していた海軍が、若くて優秀な生徒たちを戦後復興のための人材として「温存」した可能性はたしかにある。実際に、1945年4月7日の沖縄水上特攻に際しては、海軍兵学校などを卒業したばかりの士官候補生が出撃前日に戦艦大和軽巡洋艦矢矧から退艦を命じられ、温存された。
 結果的に、敗戦時の陸海軍の学校には、軍人精神を注入され、高度な教育・訓練を受けた大量の人材が残された。

へぇ~へぇ~へぇ~

本書では、さらに戦後の英語教育についても、戦前(旧日本軍)の英語教育や、アメリカの日本親米国化の戦略などと絡めて書いてあります。

*1:後に1938年から一部(仙台・熊本)の幼年学校では英語を教えるようになったようですが、時すでに遅し。