アクティブラーニング(シリーズ 大学の教授法3)

アクティブラーニング、させるのもするのもどちらも苦手意識が強いです。
自分が現役の大学生の頃は、語学や心理学基礎実験などを除けば、教壇から講義いただく「講義法」がほとんどであったため、現在教員として授業内でグループワークなどをするのも、なかなか慣れず恐る恐るやっています(汗)。
本書ではアクティブラーニングの意義など基本的なことから、様々なアクティブラーニングの方法(活動)の紹介、成績評価(グループワークの評価など、しばしば困ります)についての考え方、アクティブラーニングに活用できるシート例といった、実践的な内容まで盛沢山です。非常に実用的な内容と拝見しました。

講義法(シリーズ 大学の教授法2)

本書の「講義法」とは、どちらかというと狭義の「講義法」すなわち教壇から教員が受講生に対して講義する方法をメインとして扱っています。板書の仕方など、スキルレベルのことまで網羅して書かれており、非常に丁寧な印象を受けました。「講義法」がメインですがアクティブラーニングについても1章割かれています。
一読して、当たり前のことを当たり前にすることは大事であるがしばしば難しい(自分を振り返って)と感じました。

授業設計(シリーズ 大学の教授法1)

所属先のFD研修で、シラバスの書き方について外部の先生にご講義をいただいた中で、本書の内容がそこここで引用されていたので興味をもってこのシリーズ(大学の教授法)6冊をざっと通読してみました。
インストラクショナルデザインの考え方を取り入れた授業設計について改めて確認できたこと、公開用のシラバスだけでなく、”この授業のマニュアル”とでもいえそうな「初回配布用シラバス」(一般的なシラバスよりも授業についての説明が詳細)なるものを知ることができました。

ブラック企業の社員が猫になって人生が変わった話

Togetherまとめ?でアフェリエイトリンク貼られているのを見たのがきっかけだったかな?
何かの拍子で見かけてしまって、「ブラック企業の社員が猫」になるって、いやもう限界でござる働きたくないでござる、もう猫にでもなりたい、そして猫になって日がな一日ゴロゴロして過ごせる身分になりたい!とか思うのは分かるけれども、「猫」になるってどんなシチュエーションなの?猫になってどうなるの?と疑問ばかりになってしまったので、アマゾンでKindleをポチって一気に5巻まで読みました。そして昨日6巻が出ていることに気がついたのでまた読みました。
ブラック企業で疲弊しているモフ田(男性)くんが、朝起きたら猫になってしまっていて、猫になってしまったと上司に言っても信じてくれないので、そのまま電車で出勤して、そしてそのまま会社で働く(そして自分も周囲≒会社も変わっていく)ってどんだけ荒唐無稽なファンタジーやねんとしか思えません。
猫になっても頭の中身は元の人間のままで、でも身体的な”習性”は猫になってしまって、外見も猫なのに、会社でそのまま社員として受け入れられているという・・・猫になっても戸籍とか住民票とか、法律的な”人格”って保たれてるの?!、しまいには猫なのにパスポートをとって海外旅行してしまうってどうなってるの?!と、矛盾(不思議)を考えはじめたらきりがないのですが、何か知らんけどスイスイ読ませてしまう謎の説得力(おもしろい)があるのがすごい漫画です。

この漫画を一読して思ったのは、猫になってはじめて”人間”になれる、人間的な生活を取り戻せたのだなあと。あまりに皮肉です。
裏を返せば非人間的な生活(働き方)をしている人が(今の日本社会で)どれだけいるのかという問題でもあると思いました。

心理テストについて。


「認知検査 コツがわかって 制覇する」
心理学の専門家がちゃんと信頼性と妥当性を吟味して作っている”本物の”心理テストは、その内容が専門家以外には漏れないよう秘匿され、誰でもが簡単に見られるようなところ、例えばネット上などに公開されていません。
その理由のひとつが、この俳句でまさに表現されています。うーん。絶妙。
要はテストを”ハック”されたらそのテストを実施する意味がなくなるからです(本人および周囲の不利益につながりかねない)。
ネット上に公開されている”心理テスト(性格テスト等)”があるならば、それは正統な手続きをとって作られたものではないかもしれないし、あるいは、研究用のデータ収集目的なのかもしれないです。

戦争と文化的トラウマ 日本における第二次世界大戦の長期的影響

本書はサブタイトルの通り、「日本における第二次世界大戦の長期的影響」について、(文化的)トラウマという概念を中核において心理社会的な視点にとどまらずジャーナリズムや歴史学等の立場から多面的に議論する一連のシンポジウムの内容をまとめたものです。
本書のような視点から日本における第二次世界大戦が残した長期的影響について論じている本はあまりないと思いますので、非常に貴重と思います。

ある限界集落の記録―昭和二十年代の奥山に生きて

岡山県新見市という中国山地のそのまた山深い集落を故郷とする、ドイツ文学者による集落での暮らしの思い出話(記録)です。
ポツンと一軒家とか見ていると、山の暮らしは自力で色々しなくてはいけなくて大変だなあと思うのですが、それはまち育ちの人間の勝手な感想であり、その時代、そういうところに生まれたので、そのように生きているという暮らしがあったのだなと、しみじみと読みました。
「あとがき」より

p.225
 本書は個人を主役としている自分史ではない。あえていうなら集落の伝記である。したがって、本書に登場する固有名詞の人名や地名は特別の意味を持たない、単なる記号である。同じように消えゆく故郷をもって、同じような運命を辿った人々や地域の痕跡を残すと同時に、そのような運命を辿った人々や地域に対する鎮魂の意を表したいと念願したことが執筆の動機である。