井深大:生活に革命を

「ミネルヴァ日本評伝選」のひとつです。
図書館で見かけたので何となく読んでみました。

「はしがき」xiii
こうして超越と逸脱を一身において体現していた井深という魅力的な人物を科学史の中に位置づけて過不足なく評価し、一方で井深が身をもって生きた「科学」のあり方を、井深の人生をたどることで確認する。そんな目的意識をもって本書は書かれた。
「はしがき」xiv
こうして井深の人生を縦の座標軸として「科学」と「非科学」のゆらぎを描き出そうとした。

ソニー創業者井深大の評伝という形をとりつつ,科学哲学のような内容でした。
晩年幼児教育(早期教育)に関心をもち活動されていたということは知っていましたが,東洋医学の「気」や「脈」に強い関心を寄せていたことは知りませんでした。
若い頃は「電波」に魅了された発明少年,晩年は「気」や「脈」に強い関心をもっていた。
目には見えない不思議な力にひかれる「電波系」なのは共通していますが,何が違っていたのか。

pp.278-279
科学的思考は常にその時点の科学によって埋められていない余白を埋めようと目指す。これは古今東西の科学者に共通する志向だ。誤解を恐れずに言えば、科学者とは一般人には奇異と思われる仮説を持ち出しては不可思議な現象の説明をしようとするという意味で誰もが電波系なのだ。
電波に始まり、「それ以外」も含めてコミュニケーションの可能性を追い求め、自分の力で実用化したいと望む。そうした井深の思考のパターンが、まだまだ自分の頭と手によって新しい分野が開拓可能だった発明家肌の強かった過去の科学者だけでなく、最先端の科学者たちにも共通するものであることは否定できない。
しかし、科学者たちの仮説は、説明できる範囲を広げ、実証実験が重ねられることで科学としてオーソライズされてゆく。それに対して晩年の井深が開拓を目指した未開の地平は、彼自身が新しい「科学」としての最先端の物理学や生理学の趨勢をフォローできていなかったという限界もあってむしろ過去に「科学」の大勢が「非科学」と認定してきた民間医療や神秘主義に近い印象を与え、凡百の「後退的」ニューエイジ・サイエンスと同じ轍を踏んでしまった。そんな井深の限界はきちんと見極めておくべきだろう。

しかしそれでも・・・

p.279
発明少年からソニーの経営者となって高度経済成長期を牽引していた頃の井深を(日本社会からキツネ憑きの迷信を消失させるなどに貢献した)合理的科学的な脱魔術化のひと、晩年の井深を再魔術化のひとと二分するのはおかしい。発明家が個人で生き生きしていられた科学技術の牧歌的な時代に培った感性のままに好奇心を絶やさずに井深は生きた。その人生は徹底的に一貫していた。井深を慕い敬う人は「ボケ」云々がささやかれる前と後で、すっかり顔ぶれが入れ替わってしまったように感じられるが、そのいずれの人々をも魅了したのは生涯を通じて新しい技術を求め続ける発明家的科学者として生き抜いた、無垢にして純粋な井深の魂だったのだろう。