一汁一菜でよいと至るまで

雑誌連載をまとめられた本です。
料理のレシピなどはのっていません(笑)。土井善晴先生が「一汁一菜でよいと至るまで」の人生の軌跡を語っておられる本です。
面白かったです。
もとが雑誌連載ということで、ひとつひとつの話題の区切り(まとまり)がそんなに長くなく、そしてエッセーというかご自身のお考えを平易な言葉で読みやすく語っておられるので、大学入試とかの国語問題として出題されてもおかしくない(lionusおすすめ?!)と思いました。
少々長くなりますが、こんな調子のことがあちこち書かれていて、ほほうほうほう、と読ませてしまうのですよ。

pp.145-147 バブル時代の頃、茶事の仕事を手伝っていたときに使っていたとある高麗茶碗が、うん千万は下らないという話を聞きショックを受けました。値段自体の驚きもありますが、私にはその茶碗の価値がわからなかった。自分の目にはその違いが見えなかったのです。
 例えば、5000円の器と50万円の器の違いはなんであるのかがわからない。誰かが「これはええな」と言った途端によく見える。後年そういうことがなくなったとき、その理由がわかりました。人の言葉に影響されて感情の変化が起きるうちは未熟なのですね。いいものは話を聞く前からいいものなのです。
 そんなことがあって、自分の目は「見えない」ことを知るのです。何も見えていないと自覚したと言っていい。二十四、五歳の頃でした。
 結局のところ「これはいいものだ」と決める人がいます。ですから、「見えるか/見えないか」の基準は、よいものだと「わかったもんの勝ちや」と思いました。見えないうちは話にならない。見えるようになりたい。で、どうすれば見えるようになるかといえば、それは、ひたすらいいものを見るしかない。とにかく、最高のものを見るという経験が必要です。
 「そのためには買わんとあかん」「失敗せんとあかん」と、教えてくれる人がありました。また、「自分は嫌いだけど、これはいいものですね」「これはあまり良くないものですが、自分は好きだ」という「好きなもの」と、実際に「善いもの」とを、区別して見ないといけないこともわかってきました。とにかくいいものを見ないといけない。しかも、雑多なものよりも、一級品のいいものを見ないといけません。
 それからというもの、時間があれば、大阪中之島の東洋陶磁美術館、天王寺大阪市立美術館、京都の国立博物館などに通い始めました。美術館の会員証を持って、少しでも時間があれば、とにかく見る。

上の文章なんて、「見える」とはどのようなことだと筆者は言っているのか、文章中の言葉を使って〇〇字以内で書け、なんて出題をできそうじゃないですか。