配膳さんという仕事―なぜ京都はもてなし上手なのか

配膳さんという仕事

配膳さんという仕事

読み始めから,登場する「配膳さん」が大正生まれとかで,「ね,年齢が?!」と思いながら読み進めていたのですが,
「あとがき」に

p.212
 記事は最初,1988年1月から90年3月にかけて,料理書専門の出版社,柴田書店の『月刊 専門料理』に「京の配膳さん」のタイトルで二年間連載されました。
 そして1996年に大阪の向陽書房から単行本『京の配膳さん』として出版されたのですが,後年,社主が亡くなり出版社は閉鎖,本は絶版となっています。

とあり,30年以上前の話だったんだ~と納得です。
別ページの「附記」には,本書で登場した当時の「配膳さん」たちが亡くなったり,引退されたこと等も書かれています。

そもそも,「配膳」とはどのような仕事なのか,ということですが,広辞苑をひくと「食膳を客などの前に配ること。またその人。」と素っ気ない書かれ方ですが,
本書に登場する京の「配膳さん」とは,茶会や宴会などを,全体の流れをみながら取り仕切る独特な職業と拝見しました。

p.181
 「いうたら裏方の総指揮ですわ」と長女,美智子が,ずばりひと言。
 つまり宴会が始まれば,主人の側も客にお酌しながら,話に夢中になったりする。で,「配膳さんが料理の進行とかお酒のすすみぐあい,ひとの流れのぜんたいを見て動いてくれるので,ものすごく気が楽なんです」と。
 だから,上七軒のひとはお酌をして芸を見せ,料理人は料理に集中するだけ。ひとのあいだを埋める配膳がいればこそ,各人が安心して持ち場の役割をはたしていける。もし配膳がいなければ,用意の品物を渡し忘れたり,あるはずの物が所定の場所になかったり,とかく素人のやることには手落ちがある。

自分の知らない世界の話と,「配膳さん」が職業として成立した京都の土地柄についての考察が読めて,なかなかおもしろかったです。

ところで,本書に目がとまったのは,
www.tokyo-np.co.jp
新型コロナウイルスの影響によるホテル業界の不況で,実態は常勤であっても日々雇用の「配膳人」には休業補償がなく,苦境に陥っているという話をテレビ番組で見たことがきっかけでした。
ひとつの職場でずっと働いていて,会の進行など結構重要な役割も担っているのに,何で日々雇用なのヘンじゃない?ということについては
eulabourlaw.cocolog-nifty.com
やはり以前からヘンじゃない?とは思われていたんですね。
他にも,ホテル業界にいた人のブログ記事なども少し読みました。
http://まんぷく寺.jp/haizenmokuji.html 配ぜん人倶楽部 頑張れ配ぜん人

ホテルマナーアラカルト ホテルのコラム(第7回)

ただホテルで働くウェーター・ウェイトレスという表現では、本来正しくありません。正式な作法を身に付け、熟達した技術を有するプロフェッショナルなウェイター・ウェイトレスとでもいうべきなのでしょうか。

ホテルマナーアラカルト ホテルのコラム(第13回)

私が言うところのプロの配ぜん人とは、どこのホテルに行ってもその場で瞬時にホテルの対応を理解して、そのホテルの求めるサービスを行うことの出来る配ぜん人のことをいいます。

この人のいう「プロの配ぜん人」は,京の「配膳さん」に割と通じるところはありそうです。

スケープゴーティング -- 誰が,なぜ「やり玉」に挙げられるのか

スケープゴーティング--誰が,なぜ「やり玉」に挙げられるのか

スケープゴーティング--誰が,なぜ「やり玉」に挙げられるのか

  • 発売日: 2014/12/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
スケーブゴーティングとは,事件や事故,災害に関連して発生するもので,

(はじめに より)
責任主体が不明確な場合でも特定の人や集団がターゲットとして選び出されて非難されることもしばしばである。これは,人が曖昧な状況やフラストレーションに長時間は堪えきれず,早急に責任者を選び罰することによって心の安寧を回復しようとするためであると考えられる。このような現象がスケープゴーティングであり,その対象となったものがスケープゴートと呼ばれる。

上記のような定義を,先行研究をひきながら心理学的に詰めた上で,

pp.4-5
 以上の内容を考慮して,ここでは何らかのネガティブな事象が発生,あるいは発生が予見されている際に下記の現象が生起する場合,これをスケープゴーティングと定義することにする。
①事態発生や拡大・悪化に関する因果関係・責任主体が不明確な段階で,それをある対象(場合によっては因果関係の枠外にある対象)に帰属したり,その対象を非難したりする。
②責任帰属や非難が一定の集合的広がりをもって行われ,そのような認知や行為が共有化されるプロセスがある。

前半は理論的な検討が濃くなされていて,後半は新聞記事分析データをメインとした研究のお話でした。
新型インフルエンザで感染者を責めたり,あらぬ方向に非難の矛先が向きがちな昨今,参考になる本だと思います。

ヘンな論文 / もっとヘンな論文

ヘンな論文 (角川文庫)

ヘンな論文 (角川文庫)

もっとヘンな論文

もっとヘンな論文

これは(著者先生もご自身でおっしゃっておられますけれど)科学コミュニケーションのひとつの形だと思います。

著者は,早稲田大学大学院のドクターまで在学なさった日本語学の方で,大学非常勤講師や芸人をなさっているという,多才な方です。
ご研究のかたわら,ナニコレ?!的なネタ(だけれども論文としてはまっとうな)な論文を取り上げて,楽しくわかりやすく解説なさっています。
なんとなーくの印象ですけれども,1冊目では恐る恐る出してみたら,多方面(学者コミュニティ含む)からえらく好評だったので,2冊目ではさらに自信を得てパワーアップなさっているような気がしました(もちろんどちらも面白いです)。

『もっとヘンな論文』p.3
 私がこの本で紹介する論文たちは,「人を笑わせ,そして考えさせてくれる研究」を表彰する「イグノーベル賞」などにも入選しない,それでいて書いた人たちの膨大な時間と情熱が詰まった,「残念な論文」かもしれないが,一度目を通してもらえれば,だれでも理解できる書き方と内容で,最終的には研究者ってすごい人たちなのだなと再認識してもらえる内容だと思っている。

2冊目では学部生の卒業論文も2本とりあげられていて(「プロ野球選手と結婚する方法」「かぐや姫のおじいいさんは何歳か」),またこのどちらともすごいんですよ。いや~若い情熱だけでなく,その熱量をちゃんとコントロールして論文としてしっかり着地させているのもすごいな素晴らしいなと感銘を受けました。
同じノリで3冊目とか出して欲しいなあ,いや,もっともっと出して欲しいなあ。

外傷後成長に関する研究―ストレス体験をきっかけとした青年の変容―

先日読んだ
lionus.hatenablog.jp
の著者先生の博士論文をもとにした本です。
PTG(外傷後成長)面接調査と質問紙調査,そして教育実践研究(?)を組み合わせた研究がまとめられています。

”時代の風”をよむためにあくまでも貪欲な筒美京平と松本隆。

先日亡くなった作曲家の筒美京平についてのNHKスペシャルを見ました。
www.nhk.jp

沢山のヒット曲の作曲家としてお名前はよく拝見していたものの,その創作については知るよしもなかったので,事前の予想よりもずっと興味深く拝見しました。
その後,たまたまこの番組関係の記事を読み,
www3.nhk.or.jp

長くコンビを組んでいた作詞家の松本隆さんのコメントを拝見して,自分が以前書いたはてな日記の記事を思い出しました。
lionus-old.hatenablog.jp

松本隆さんが大学生たちと教室で対話していた番組について書いていたのですが,
今でいう”意識高い系”ぽい大学生に”売れる”こととマーケティングについて何か質問されたときに

マーケティングとかって,売れている曲を研究するとしてもさ」
「その曲は3ヵ月くらい前かに録音されているわけで」
「そしてそれが作られるのは1年くらい前の時点なわけで」
「だとしたら,こんな曲が売れるんだと追従する時点で,1年遅れになってしまうんだよね」
マーケティングとかいっても結局後追いじゃないの」
「(売れるものを作るためには)結局は自分のアンテナを張るしかないんじゃないかな,感性なんじゃないかな・・・」

とサクッと一刀両断し,
さらに,(確か他の学生に)どうやったら感性が磨かれるのか?と尋ねられて,

「どうしたらっていってもさ」
「僕,1日に1本映画を観てた頃があってさ・・・1年に200本とか」
「あと,小さい頃,図書館の本の棚のここからここまで全部,読んでやろうとか,友達と競争したりとか」
「最初から,これって決めてしまうより,ともかく何でもっていう方がいいんじゃないかなと思う」

とかってさら~りと受け流しながら斬っているのがすごかったなあと思いました。

先に挙げたNHKスペシャル関連の記事によると,松本さんは筒美さんに自分のレコードを聴かせたら「趣味で音楽できていいわね」って言われたと。
「趣味で音楽って作っちゃいけないのかなと。僕はそれまで趣味でしか音楽を作ったことがなかったから」と苦笑しながら番組でも回想されてました。筒美さんには「趣味」って言われちゃったのかもしれないけれど,上記の学生さんとの対話を見ると,マジの本気で「趣味」される人なんだと思います。一般的に言われる「趣味」・・・言い換えると遊び?でも遊びであってもマジの本気で遊ぶのもむっちゃエネルギー要りますよね。
そういう,マジの本気で「趣味」「遊び」する”変人”だったからこそ,

筒美さんの曲のアレンジを多く手がけた編曲家の船山基紀さんは、筒美さんが長年ヒットメーカーとして活躍できたのは、常に時代の変化を敏感に捉えようとしていたからだと分析している。

https://www3.nhk.or.jp/news/special/sci_cul/2020/11/story/kyoheitsutsumi/

常に研究を怠らず,

アメリカのチャートの動きが大好きなんだよね。最後のほうは、『アデルが』(イギリスの歌手)とか言ってた。さすがに早いなと思ったよ。僕なんかより、やっぱり全然詳しかった」

https://www3.nhk.or.jp/news/special/sci_cul/2020/11/story/kyoheitsutsumi/

松本さんも舌を巻くくらい,新しい音楽を追いかけていた”巨人”筒美さんと長くタッグを組めたのだろうなと思いました。
得がたい相棒というか,好敵手という感じだったのでしょうか。

臨床宗教師―死の伴走者

臨床宗教師

臨床宗教師

  • 作者:藤山みどり
  • 発売日: 2020/01/07
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
「臨床宗教師」について知ったきっかけなど,思い出せませんが,
2014年11月のNHKの番組だったのかもしれません。
www.nhk.or.jp

本書は終末期の患者や家族,あるいは遺族を医療者とは違う立場から支え,ケアをする「臨床宗教師」について,東日本大震災をきっかけとしたひとりの僧侶の自発的活動から東北大学大学院に養成講座が立ち上がっていく経緯や,臨床宗教師の活動の実際についてまとめられている本です。
とりあえずこの一冊を読めば「臨床宗教師」ってどんなもの?について大体分かるようになっています。

臨床心理士」と「公認心理師」をもっている自分としては(どちらも使っていないペーパーですが),従来からの”心理カウンセラー”等と,臨床宗教師はどこが違うのか?どのような棲み分けになるのだろうか?という気持ちで読んでいました。
当然,著者もそのあたりは意識しているようで,心理の専門職とはここが違う!といったことをちょこちょこ書かれています。
まあいくつか書かれていたことの中には,?といささか疑問に思うこともあったのですが,絶対にこれは違うな!納得!というのは

p.312
 臨床宗教師は,公認心理師の登場によって締め出されるのではないかと懸念する人もいるかもしれない。だが,臨床宗教師は,布教伝道はしないものの宗教者であり,ケア対象者の希望によっては宗教的ケアも行う点で公認心理士とは全く別な存在である。この点では,一般的な心理の専門職とは全く競合しないといえる。

そうなんだよな。
終末期患者に「死後の世界はあるのか」「死後の世界の幸福」とか,「霊」はいるのかとか問われたら,うーん・・・ですし(もちろんしっかり受け止めてやりとりしていくしかないでしょうが),いやそもそも,心理職に聞かないだろうしなあ・・・
実際,本書には東日本大震災後に,被災地で「幽霊」が出るとかいう相談に,臨床宗教師たちがいかに対応したかの事例も挙げられています。

津波に流されて亡くなった友人が幽霊として出てくる,という女性の相談について)
p.27
彼女の紡いだ物語を「傾聴」を通して整理し,そしてそのすべてを受けとめ,その後,宗教的な儀式である読経と,宗教的資源である地蔵と数珠を渡すことで落ち着いた事例だという。これらは,傾聴にとどまることも多い心理カウンセラーとは違い,宗教者であることを活かした対応である。

そうなんだよなあ。公認心理師が「読経」しても全然有り難くないよねえ・・・
まあ心理屋は心理屋としてのやり方があるとしか言えないなあ。

中央銀行 セントラルバンカーの経験した39年

白川元日銀総裁が,タイトルの通りのことを書かれたご本です。
本,といってもこれは辞書か?!と思えるほど,分厚い(「あとがき」まで738ページ)本でした。
1972年の日本銀行入行から,2008年~2013年の日銀総裁としてのご経験,日本経済の問題など,多岐にわたる内容だし,書き始めたこんな結果になっちゃったのねという感じです。
当然読むのも大変でしたが,さくさくした無駄のない文章で,内容は(経済学の知識がない自分には)それなりに難しいけれども,言わんとすることはするする頭に入ってくる本でした。そもそも,こんな分厚い本を破綻なくまとめておられるし,とんでもなく頭脳明晰な方なのだと思いました。

本書を読むと,日本銀行とはどのような存在か知ることができるだけでなく,自分にとっては「バブル」や「デフレ」について,そして「日本経済の真の問題点」について新たな知見(見方)が得られたことが大きな収穫でした。

p.336
 これまで述べてきたように,残念ながら日本経済の真の課題は必ずしも正しくは認識されなかった。最も影響力を持った議論は,「日本経済の最大の課題はデフレであり,何よりもデフレからの脱却が不可欠である」というものであった。このような認識は国会での総理大臣の所信表明演説でも,財界首脳の公式挨拶でも,新聞の社説でも頻繁に登場したが,ひとつの「ストーリー」になっていた。このような「ストーリー」を英語では「ナラティブ」(narrative)と表現することも多いが,ストーリーあるいはナラティブは非常に大きな威力を発揮した。

pp.336-337
ナラティブとして定着するためには,人々の感情に強く訴えるものでなければならない。その点で,デフレという言葉は恐怖心を搔き立てるうえで十分な効果を持っていた。また,ナラティブは現状の描写として共感を呼ぶものでなければならない。その点で,不満足な経済の状態(就職氷河期という言葉に代表される新卒者の就職難,非正規雇用の増加,所得格差の拡大等)が続く中で,デフレという言葉(言葉の厳密な定義は別にして)は多くの人の抱く現状への不満を代弁していた。そして,ナラティブはわかりやすいものでなければならない。その点で,犯人はお金の供給増加に慎重な日本銀行であるという,貨幣数量説にたった説明はわかりやすい。
 過去20年間,日本経済を語る際に最も頻繁に使われ,現在も使われている言葉は「失われた10年(20年)」であったと思うが,これも典型的なナラティブのひとつである。日本の政府,企業経営者,内外のエコノミスト,マスコミの常套句であったと言っても過言ではないだろう。

p.689
 人々が感じている不満は最終的に政治に反映される。バブル崩壊以後日本経済が経験した困難は,一時的な需要の減退によるものというより,高齢化・少子化,日本企業のビジネスモデルの不適合等,より構造的で中長期的要因にもとづくものである。これらの問題に本格的に対処するためには,「構造」自体を変える取り組みが必要となるが,既存の秩序を変える取り組みには抵抗が大きい。それゆえ,とりあえず誰からも文句を言われない金融緩和政策への依存が強まることになる。

日銀総裁時代に「デフレ」議論に”わるもの”扱いされながら対峙してきた苦悩が,上記抜き書き以外にも,あちこちでうかがえます。
でもそれは,選挙で選ばれたわけでもない”専門家集団”(=日銀)として,国民の理解と支持なしには,国民生活に多大な影響を及ぼす金融政策はできないという意識をお持ちだったからこその苦悩でもあったのだろうなと拝読しました。