広島電鉄殺人事件

広島電鉄殺人事件 (新潮文庫 に 5-39)

広島電鉄殺人事件 (新潮文庫 に 5-39)

図書館の新着図書にあるのが目に止まり,

  1. 西村京太郎といったら列車ダイヤの盲点をついた推理もの(多分)
  2. 小説で読んだことないけど子どもの頃土曜ワイド劇場でなんか見たような気がする
  3. 広島電鉄=ひろでん=路面電車→ダイヤはある程度あるけど専用線路走る列車ほど正確ではない*1ので,上記1.のような話の組み立てはできるのか?!

以上のように自分イメージでは西村京太郎×広島電鉄ってどう成立するのか不思議だったので,初めて西村京太郎ミステリーを読んでみました。

阪急電車の中で読みました。
推理小説としてはあんまりな雑な設定・展開の連続で,小説の後半はずっこけまくりでした。
読後Amazonのレビューを見ましたら,

弟子が書いてんのかな?

とあり,なるほどーと。西村京太郎先生は1930年生まれですものね。
まあでも,

前半は広電の歴史、導入車両や各駅の特徴、制限速度が途中から変わるなど、豆知識とミステリーが絡まった読み物として楽しめました。

という感じでもあるので,読んで時間損したという気はしませんでした。

*1:車と同じ道路を走るので,車の渋滞程度に左右されるし,信号では止まらないといけない。

災害防衛論

災害防衛論 (集英社新書)

災害防衛論 (集英社新書)

こちらも再読でした。
最初に読んだときの昔の記事:
lionus-old.hatenablog.jp
本書のポイントは,以前読んだときにも書き留めていた,

  • 災害抵抗力+回復力=災害弾力性(リジリエンスともいう)
  • 能動的安全と受動的安全

p.59
 自動車の安全走行を実現するためには,事故の未然防止と,事故が発生した場合に,運転者や同乗者,歩行者などへのダメージを最小限におさえる工夫やしくみが必要である。前者の事故の防止に関するしくみや措置を能動的安全(active safety)または予防安全性,後者の事故による被害を軽減するしくみや措置を受動的安全(passive safety)または固有安全性と言う。

著者先生は,能動的安全よりも受動的安全を優先すべきと言います。

p.60
さまざまな事前安全対策によって事故を減らすことはできても,事故そのものをなくすことはできない。いかにして被害軽減をはかるかが,最重要のテーマであるべきなのだ。能動的安全よりも受動的安全の追及を優位におくべきである。そして受動的安全を究極までつきつめていくと,被害をゼロにおさえることができる。これは能動的安全の完全な達成状態である。このことは,発電用原子炉の進化の事例からも明らかである。

以前読んだ時にはあまり頭にひっかかってこなかったけれども,今回の新型コロナウィルス問題に関連して,危機における強力なリーダーシップ(強力な権限をふるう)の必要性について考えさせる記述がありました。
まず,危機時のリーダーシップについて。

p.180
 私がここで問題にしたいのは,日本の精神風土である。強いリーダーシップを毛嫌いする風潮が,わが日本の社会には強すぎるのである。

ということなのですが,今回の新型コロナウィルス問題はもしかすると”つよいりーだーしっぷ”が変な形で現われつつあるのでは?と感じてしまいました。

p.180
今後わが国が,予想される新しい危機的事態――テロやパンデミックなど――に直面したときに,われわれがいやおうなく緊急対応をせまられることは明白だが,このようなとき,危機を回避するために強いリーダーシップがもとめられるはずである。また,災害時には明確に一元的な意思決定のシステムが必要となる。そこでは,合議によって行動がきめられるのではなく,一人または少数の人間が迅速に全てを決断する必要がある。

これはリーダーが優秀であることを前提としている記述だと思います。

次に,非常時に”強権”を発揮して事態をコントロールすることについて。
著者先生はアメリカのTVドラマ『24』に出てくるという「CTU(テロ対策ユニット)という架空の連邦機関」を例にして,

p.183
 ここでの私の関心は,あらゆる過剰なコストを支払いながら,無差別テロという巨大リスクに対応しようとする架空の政府機関の利害得失,是非善悪の問題なのである。

そんな政府機関は必要かも知らんけどどうだろう?と微妙な書き方をされています。

最後に,これは絶対今こそ必要。

pp.185-186
 重要なのは,テロ対策であれ,感染症対策であれ,何が必要な措置であり,何が不適切な措置であるかを,われわれがきちんと判断しなければならないということだ。権力の独走や権限の自己増殖をきちんとチェックする手段を,われわれは持っていなければならないということである。

無防備な日本人

こちらも昔の日記を見たら,再読でした。
最初に読んだときの記事:
lionus-old.hatenablog.jp

p.16
 1995年は,はっきりとした戦後日本人の,意識変化の潮目をかたちづくっている。日本人に関する安全神話は,時間がこの境を越えたときに崩壊した。

1995年は,阪神・淡路大震災地下鉄サリン事件があった年です。

pp.16-18
この劇的変化は,私たちが行ってきた世論調査の結果にもあらわれている。日・米・仏で1992年から93年にかけて全国規模で行なった世論調査では,米・仏の過半の人びとは,社会が危険ならば,自分たちの私的生活も危険になるとはっきり意識していたのに対して,日本人の多くは,仮に社会は危険でも,自分たちの私的領域は堅固に守られていると確信していた。
 その後,毎年のように,首都圏や全国で実施してきた世論調査の結果を見ると,1995年を境にして,日本人のリスク観は,大きく変化している。阪神・淡路大震災と地下鉄サリン・テロという二つの大災厄を経験した後で,社会の危険はすなわち自分自身への危険だと感じる人びとが過半に達するのである。リスクに敏感に反応する人びとが,世論の中心に座を占めるに至ったのである。

しかしながら,タイトルにあるように「危機対応が下手な日本人」,心理学的にみてリスク認知バイアスが強く”鈍感”であると本書では説明されています。
さらに,日本人の危機対応下手の例として,エイズ薬害や,学校給食などで発生したO-157集団感染があげられています。

pp.113-114(2003年の社会調査結果を引用して)
 政府や省庁が発表するリスク情報の信頼度は,3番目に高く評価しているが,その反面で政府や省庁の情報が信頼できないという回答は,割合で比較するとその2倍以上に達している。政府や省庁の情報は,政治的思惑や行政的な配慮が働いて不正確な情報であるおそれがあること,意図的に情報を歪めたり,隠して伝えるおそれがあることに,アンケートの回答者である国民は不安なのである。
 注目されるのは,新聞社やテレビ局が独自に行なう取材・調査に基づく報道への信頼性が高くないことである。特にテレビ局に関しては,政府・省庁に次いで信頼できないとする回答が多い。このことは注目すべきだろう。マスメディアが,いわゆる独自取材に基づく報道をあまりにセンセーショナルに行なってきたツケが,このような形で不信感となってあらわれたのである。

p.123
食の安全を担う国の機関として,この時のO-157の集団感染の多発に関して,徹底した科学的な原因追及を行なうべきであった。
 マスメディアの側にも問題があった。マスメディアは,独自の批判的な視点を持ち込んで,厚生省のリスク対策をチェックすることが少なかった。結局のところマスメディアは,潔癖,清潔好きの国民に過大な恐怖心を引き起こして,O-157恐怖症におちいらせることで感染症の拡大阻止をはかるという,古典的な防疫体制の一翼を担うことになったのである。

(上記太字はlionusによる)これはO-157集団感染(1996年のカイワレ騒ぎのアレ)についての記述ですが,今回の新型コロナウィルス問題にもそっくりあてはまるかも・・・
10年以上前から進歩してない・・・

人はなぜ逃げおくれるのか

キャッチーなタイトルです。
再読です。以前読んだときの記事。
lionus-old.hatenablog.jp

タイトル通り避難行動の心理学的解説がなされているほか,災害時・災害後の被災者や被災社会の特徴について概説されています。

今回再読して,以前はあまり印象に残っていなかったけれど,今はへぇと思う内容。

p.209
大災害は社会的な変化を加速するというのが,プリンスの結論であった。これを別の言いかたで表現すると,災害社会学者のユージン・ハースたちの述べているように,災害のもたらす社会的な影響の本質は社会変化の先取りであり,「急速に成長しつつあるコミュニティは,被災しても急速に復興するが,変化せず停滞しているか,下り坂にあるコミュニティは,被災後にきわめてゆっくりと復旧するか,急激に衰えていく」ということになる。

p.211
 大災害は,それまでの社会システムの欠陥をクローズアップして見せることで,いわば変動期型の社会をつくり出す。別の言いかたをすれば,歴史の歯車を一回転前進させることで,移行期の社会を醸成すると言ってもよいだろう。その際のキーワードが社会システムの効率化である。この現象は,具体的には合理化というかたちで現われる。

本書では,有珠山噴火で観光業打撃をきっかけに中小旅館が大手資本に吸収合併された例や,阪神・淡路大震災後の「神戸ブランド」凋落の例があげられています。

p.212
 被災した社会システムは,災害後の事態に適応するために,機能面での合理化・効率化を進める。その過程で,古くて非効率的な部分は切り捨てられるか,統合して再生させられる。思い切ったスクラップ・アンド・ビルドは,平常時にはさまざまな抵抗にあって徹底を欠くが,緊急の事態のもとでは,断行が容易になる。このような思い切った動きの結果,社会システムの改変が起こるのである。

今回の新型コロナウイルス・・・学校の休校とかリモートワークとか,学校や職場に一斉に集まらないといけないという呪縛から解放される機会になるのか?!

災害に出合うとき

新型コロナウイルス禍,患者数や死者の数はこの記事を書いている時点では”パンデミック”レベルとはいえないと思いますが,学校一斉休校やイベント等の自粛など,社会や人々の意識・生活に大きな影響を与えている現状は,まさに一種の”災害”といえる状況ではないでしょうか。 

 少し前に読んだこの本で,人々が避難しない,避難行動が遅れてしまう心理について広瀬弘忠先生へのインタビューや文献が引用されていたので,

lionus.hatenablog.jp

広瀬弘忠先生の本をまとめて借り出して読んでいます。

災害に出合うとき (朝日選書)
 

上は,1995年の阪神・淡路大震災後の1996年に出版された本です。

阪神・淡路大震災後に何度も現地に入り調査した経験が書かれているだけでなく,(社会心理学社会学ベースの)災害研究者として関わった過去の災害(1977年~1978年有珠山噴火や1982年の北海道・浦河沖地震,1991年の雲仙・普賢岳噴火災害など)の経験も豊富に書かれていて,非常に内容が濃いです。

避難行動のような心理学っぽい内容だけでなく,行政がどのように災害に対応するか,社会学的?政策学的?な側面について,特に災害発生時に被災地の自治体首長の対応についても具体的に書かれているのは興味深かったです。

ところで,本書のタイトルは,1995年当時被災者のメンタルヘルスについて書かれた本として話題になった(書店で平積み!)この本が念頭にあるのかなと思ってしまいました。

 

 

NHK「100分de名著」ブックス ニーチェ ツァラトゥストラ/ニーチェとの対話―ツァラトゥストラ私評

NHK「100分de名著」ブックス ニーチェ ツァラトゥストラ

NHK「100分de名著」ブックス ニーチェ ツァラトゥストラ

  • 作者:西 研
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2012/03/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
NHK「100分de名著」ブックスのニーチェツァラトゥストラニーチェツァラトゥストラは単語だけしか知らない人間には,ニーチェの生涯や,「ルサンチマン」「ニヒリズム」といった言葉の意味をくだけた表現で読めたのは有り難いです。

pp.35-36
ルサンチマンの根っこにあるのは,自分の苦しみをどうすることもできない無力感です。そして絶対認めたくないけれども,どうすることもできないという怒りの歯ぎしり。そこで,この無力からする怒りを何かにぶつけることで紛らわそうとする心の動きが起こる。これがルサンチマンです。

p.36
 このルサンチマンがなぜ問題かというと,ぼくなりの言い方をすると「自分を腐らせてしまう」からです。よりニーチェに即していいますと,悦びを求め悦びに向かって生きていく力を弱めてしまうことがまず問題です。そして「この人生を自分はこう生きよう」という,自分として主体的に生きる力を失わせてしまうことが二つ目の問題点です。ルサンチマンという病気にかかると,自分を人生の主役だと感じられなくなってしまうのです。

近年よく言われている「無敵の人」を連想してしまいます。
ニーチェの書いていることは,まさに現在の日本社会をも的確に射貫いているとびっくりしました。

p.50
「神は死んだ」とは,直接にはキリスト教の神が信じられなくなっていくことを指しています。しかしそれは同時に,これまで信じられてきたヨーロッパの最高価値すべてが失われてしまい,人々が目標を喪失してしまうことをも表しています。
 このような事態をニーチェは「ニヒリズム」という言葉で呼びました。

「神は死んだ」,そうなんだ。

p.55
 末人とはツァラトゥストラにとって最も軽蔑すべき人間のことですが,一言でいえば「憧れを持たず,安楽を第一とする人」です。神が死んだニヒリズムの世界では,憧れや創造性を抱くことなく,安全で無難に生きることだけを求める人間が出てくるだろう。ツァラトゥストラはいいます。

どきっ。今時の大学生とかこんな感じだし。
この点については自分も人のこと言えないし。
色々と読んでいてつらくなるところもありますが,以下は明るい気持ちになります。

p.111
文化というものは単なる消費財ではなく,ほんらい,作品をめぐる語り合い(批評)を含み込んでいるものだとぼくは考えます。
 なぜ「この作品はすごい」のか,なぜ「この考えはいまひとつダメなのか」。こうやって互いに語り合われることを通じて,人生に対する態度や,他者に関わる態度,社会に対する姿勢など,自分がいままで無自覚につくってきた「よい・わるい」の感覚が,他者の感覚と照らし合わされ,検証されていく。そのプロセスを経て,「やっぱりこれはいい。これはよくない」という価値観の軸ができあがっていく。こういうことが文化の本質でしょう。

語り合い確かめ合う空間の重要性。

続いてニーチェツァラトゥストラに関する新書を1冊,読みました。
ニーチェ研究の大家が,ニーチェツァラトゥストラ(と他の著書からも)を引きながら,自身の感想を語っている本です。
こちらも面白かった。1978年初版ですが,書かれていることは40年あまり経った現在でも通用する新鮮さと鋭さがあります。
例えば,
自由という名の自己喪失

p.117
いかなる時代でも,いかなり社会でも,個人の仕事がなにかの新しさを発揮できるとしたら,長期にわたる訓練や修行を積んだあとで,はじめて新しさが可能になるのである。それも努力してやっとわずかばかりの新しさが出せるにすぎない。そういう経験は,今日でもなお実社会を動かしている現実の法則である。

p.117
しかしどういうわけか学校教育だけが,このような法則を避けて通ろうとする。いわく児童や生徒の自主性を育てるという。いわく学生の自由な判断を尊重するという。個性をたいせつに扱うという。しかし結果的に,青少年は無原則,無形式の中で自分を見失い,自己形成の契機をつかめず,かえって古くさい既成の観念にもたれかかり,ステロタイプの枠の中に閉じこめられてしまうことが多いのである。前衛や変革を気どった青年の新しがり,無形式の自由の行為が,日本では意外と古風な浪花節的仁侠道を一歩も出ていなかった,というような実例にもわれわれはたびたびお目にかかっている。

笑い。アクティブラーニング・・・

NHK「100分de名著」ブックス マキャベリ 君主論/マキァヴェッリ:『君主論』をよむ

年明けにこの記事を読んで触発され、
anond.hatelabo.jp
NHK「100分de名著」で紹介された”名著”を解説した本や入門本を順番に読んでみようと思い立ちました。
上記記事主は、NHK「100分de名著」の番組テキストのバックナンバーを読んだみたいですが、近辺の図書館には入っていないようなので、自分の近辺で借り出せるものにするつもりです。
その一つ目として、マキャベリ君主論

NHK「100分de名著」ブックス マキャベリ 君主論

NHK「100分de名著」ブックス マキャベリ 君主論

  • 作者:武田 好
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2012/08/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
番組テキストではなく、番組の内容をまとめた「100分de名著」ブックスのシリーズです。
君主論』のあらましと、それが書かれた時代的背景や状況を分かりやすく解説されています。
君主論』とは、もう一度政治の仕事がしたいよとメディチ家に向けて書いた「就職論文」だったとは。
マキァヴェッリ: 『君主論』をよむ (岩波新書)

マキァヴェッリ: 『君主論』をよむ (岩波新書)

他の著者による別角度の話も1冊は読んでみようと、選びました。出版年が新しくて、岩波新書という点で選びました。
こちらは新書だけど、少々難しかったです。でも『君主論』が書かれたルネサンス期とはどういうものか、またこの著者がいっている『君主論』の特異性が参考になりました。

pp.245-246
 マキァヴェッリは、神が善人に報いてくれるという信仰や、運が自らに味方しているという根拠なき想定を打ち砕き、祈りや無為による統治を批判している。欺瞞や裏切りなどの悪徳は、政治的失敗をもたらすかもしれない。とはいえ、神の意志ゆえにそうなるわけではない。そこには世俗的理由がある。裏返せば、暴力や悪徳の行使ゆえに神が罰を与え、現世で不幸になるわけでもない。ローマの成功がローマ人の徳に対する神の報いであるという伝統的な理解からすれば、ルッカのプトレマエウスが論じたように、悪しき君主には必ず神による罰が下る。しかし、マキァヴェッリが神を信じていたとしても、その神は、現世の事柄にそのように関与することはないように見える。だとすれば、彼にとっての知的な課題は、いかなる政治的行為がいかなる帰結をもたらすかという問題に関する世俗的説明であるお。マキァヴェッリは、粘り強くかつ大胆いこの問題の解明に取り組んだ人物である。
 すでに触れたように、中世と比較する限り、ルネサンス期には人間の自由や能力が力強く肯定された。この命題は、たしかに聞こえは良いが、そのことは、信仰の欠如に伴う不安や知的混沌をその代償としている。それゆえ、単純に中世よりも近代が良いというわけでもない。不安や混沌を抑えるためには大いなる努力を要するし、すでに述べたように、人間が神ではないゆえにいくら努力を重ねたとしても、その不安は、完全には解消されえない。この状態は、憂鬱な状態であろう。
 しかし、マキァヴェッリは、対象を理解しようとする意欲を捨て去ることはできなかった。彼は、親友ヴェットーリとの書簡から明らかなように、政治を語らざるをえなかったのである。マキァヴェッリの理論的な試みは、キリスト教的理解への挑戦であり、さらには、その理解が確実性を失い始めたゆえの知的混沌への対応と見ることができる。