ロケットガールの誕生:コンピューターになった女性たち

今はNASAの研究所になっているJPL(ジェット推進研究所)で、
ja.wikipedia.org
コンピューターとして働いていた女性たちのお話です。
え?コンピューターとして働いていた?といぶかしく思われるかもしれませんが、計算をする機械=コンピューターが開発される前は、弾道計算やロケット打ち上げの実験など膨大な科学的計算を必要とするときに、人海戦術で計算していたそうで、その計算に携わる人を「コンピューター」と呼んでいたそうです。
当時のコンピューターは男女どちらもいたらしいのですが、この本の舞台となっているJPLでは、発足した当初からコンピューターが女性、エンジニアが男性という棲み分けが何となく発生し、さらにコンピューター室の監督が後に(自然と)女性になったこともあり、長らく女性コンピューターと男性エンジニアという組み合わせが続いていたようです。
しかし、IBMなどの機械(デジタル)コンピューターが発達し、高度な科学計算の要求にも応えられる性能をもつようになると、例えば女性電話交換手が電話交換機にとってかわられるようになったように、あちこちの研究所で人間コンピューター(ほとんどが女性)がデジタルコンピューターに置き換わっていったそうですが、この本の舞台となったJPLではそうではなかったというのが非常に興味深かったです。
初期のデジタルコンピューターは、巨大な図体のくせに鈍重で、人間のコンピューターの方がサクサク仕事するし信頼できると思われていたのですが、JPLのコンピューター室の女性たちは、FORTRANという科学計算ができるプログラミング言語に早いうちから目をつけて習得し、今まで自分たちの手でやっていた計算を、しだいに使い物になりつつあったデジタルコンピューター上でプログラミングしておこなうスキルを身につけていったのだそうです。
その結果、デジタルコンピューターに職場を奪われなかったばかりか、プログラミングして高度な計算をおこなうことができるようになり、エンジニアの下請け=コンピューターという立場から、ある目的に適うようなコードを書いてロケット打ち上げや宇宙探査機のプロジェクトに貢献するといった、下請けを脱却しエンジニアと肩を並べる、いや、エンジニアとして論文の連名になるような立場に至ったということが本書では書かれています。

とてもくだけた言い方をすると、数学が好きで得意な女の子、でも女性では数学を活かすようなキャリアなんて思いもよらなかった時代に、数学得意を活かせる仕事=コンピューターに就き、さらにはプログラミングというスキルを得て宇宙探査といった先端技術の分野で活躍するまでに至った女性たちの公私にわたる奮闘*1が描かれている本でした。

*1:仕事と家庭との両立の苦悩など、女性ならではの悩みも描かれています。例えば、あるコンピューターの女性が、妊娠して大きなお腹を抱えて駐車場をえっちらおっちら歩くのが大変なので、自分の通勤用自家用車を優先的に停められる場所を申請しようと管理部門に相談したら、逆に、妊娠している女性は雇えませんと、いきなり解雇されたというエピソードは衝撃的でした。

英語と日本軍―知られざる外国語教育史

旧日本軍の将校等を育成する学校において外国語(英語中心)がどのように教育されてきたかについて、まとめてある本です。
日本の外国語教育は幕末、沿岸に外国の船がちらほら来るようになり、それに対抗する(国防)必要から、オランダ語以外も知らなければいけないということから始まり、開国後は、軍隊の西洋化(近代化)のためにフランス語などの理解習得が求められ、さらに国際社会への参加や敵情(仮想敵国も含む)を知るために外国語の必要性が一層高まり・・・といいった流れだったことが分かりました。

本書の面白いところは、旧日本軍、特に陸軍のドイツ(ナチス・ドイツ)の過大評価と、(太平洋戦争で対戦することになった)イギリス・アメリカの軽視はどこから起こったのかについて、ひとつの視点を提供しているところです。

pp.20-21
特に陸軍の中枢幹部を多く輩出し幼年学校では、日中戦争に至るまで外国語教育をドイツ語・フランス語・ロシア語のみに固定していたために、その後の軍事戦略上もっとも必要とされた英語をなかなか導入できなかった。そのため、大半の幼年学校出身者は士官学校や大学校へ進んでも英語を学ぶことができなかった。そのため、大半の幼年学校出身者は士官学校や大学校へ進んでも英語を学ぶことがなかった。その問題は、1941(昭和16)年に日本が南進政策に転じて、アメリカやイギリスと直接対峙するようになると致命的になった。英語を知らず、英米情報に疎い陸軍中枢幹部らが戦争を指揮することになったからである。

陸軍幼年学校から陸軍士官学校陸軍大学校の超エリートコースを進んだ層は、陸軍の中枢を占めていたが、英語を習っていなかった、とありますが、
そもそもそうなった背景として

p.121
陸軍は幼年学校の独自性を強調し、これを存続させる根拠として、中学校では履修できないドイツ語・フランス語・ロシア語などの軍事的重要性と、年少時より語学学習を開始することのメリットを挙げた

第一次世界大戦後の世界的な軍縮の動きと、関東大震災の復興費用捻出の必要から、陸軍幼年学校がリストラされそうになったので、いやいやいや、普通の中学校と違ってウチらはドイツ語・フランス語・ロシア語を教えているし、ロシアは仮想敵国として、ドイツ・フランスは陸軍の先輩として、それらの国の言語を学ぶのはすごいすごい大切でしょ!だから幼年学校は必要だ!リストラ反対!とか主張して、(英語でなく)ドイツ語・フランス語・ロシア語を教え続けていたらしいです*1
幼年学校エリートはドイツ・フランス・ロシアのどれかを学び、より上位の学校に進んでも引き続き同じ言語を学び続け、その中でも成績優秀者は将来の幹部候補として、選修した言語に対応した国に留学等で派遣されたそうです。

p.187
 幼年学校の出身者の中でも、特にドイツ語班出身の者が陸軍の最エリートを構成した。彼らのうち成績優秀者は陸大にまで進み、卒業時の優等生に与えられた留学の行き先はドイツが33%と断然一位を占めていた。こうしてドイツ語選修者でドイツ留学組が陸軍内で最大勢力を誇るようになった。陸軍兵務局長などを歴任した田中隆吉(少将、陸士26期・陸大34期、1893~1972)は、首相となった東條英機が周囲を幼年学校のドイツ語班出身者で固めたと証言している(『日本軍閥暗闘史』135頁)。

上記のように、それらの成績上位→留学派遣組(幹部候補生)の多くは、幼年学校出身のドイツ語選修者で占められ、その結果、旧日本軍(陸軍)の中枢にはドイツ(語)閥ができてしまった、と著者先生は書いておられます。

pp.189-190
 いずれにせよ、陸軍の長エリート幹部たちは幼年学校や士官学校で英語を学ばなかった。イギリス・アメリカ圏に留学する者もほとんどいなかった。一方、少年時代からドイツ語を学んだ東條英機大島浩らはナチス・ドイツに心酔し、過大評価した。こうして彼等は国際情勢を見誤り、イギリス・アメリカの真の姿を知らないまま太平洋戦争に突入していった。ここに、国家としての長期的な外国語戦略とインテリジェンス戦略の脆弱さを見ることができる。

一方、イギリス海軍を範として作られた旧日本軍の海軍は、配下の学校ではもっぱら英語を教えており、さらに読解中心(教養的)というより、オーラル・メソッドに基づいた言語運用能力に重きをおいた教育方法をとったと本書ではまとめられています。
とはいえ、海軍も特定の言語に特に傾斜していたという点では、陸軍と変わりはないのでしょうが、海軍は英語=言葉だけでなく、イギリス・アメリカ的な現実的・合理的な考え方も言語の学習を通じて身につけていたのかな?と思わせられる面もあります。
著者先生は、そのようなことは書いておられませんでしたが、本書では海軍は敗戦後の国のたてなおしを見据えた学校戦略をとっていたと考えられることが書かれていて、その深慮遠謀に少し驚きました。

p.234
 陸海軍の幹部養成学校に集められていた優秀な若者たちも、敗戦とともに無傷のまま戦後社会に送り出されていた。すでに連合艦隊が壊滅し、航空戦力が絶望的な状況になっていた大戦末期に、敗戦を自覚していた海軍首脳が戦後復興のための指導的人材の養成を文部省に代わって引き受け、意図的に温存したという証言もある。海軍兵学校校長だった井上成美は、在任中に年限短縮と軍事学の重点化に反対し、英語を含む普通学に比重を置いた。戦後になって、井上はその真意を教え子たちにこう語った(前掲『井上成美』407頁)。
***
戦争だからといって早く卒業させ、未熟のまま前線に出して戦死させるよりも、立派に基礎教育を今のうちに行い、戦後の復興に役立たせたいというのが私の真意でした。
***

p.235
 このように、敗戦を予測していた海軍が、若くて優秀な生徒たちを戦後復興のための人材として「温存」した可能性はたしかにある。実際に、1945年4月7日の沖縄水上特攻に際しては、海軍兵学校などを卒業したばかりの士官候補生が出撃前日に戦艦大和軽巡洋艦矢矧から退艦を命じられ、温存された。
 結果的に、敗戦時の陸海軍の学校には、軍人精神を注入され、高度な教育・訓練を受けた大量の人材が残された。

へぇ~へぇ~へぇ~

本書では、さらに戦後の英語教育についても、戦前(旧日本軍)の英語教育や、アメリカの日本親米国化の戦略などと絡めて書いてあります。

*1:後に1938年から一部(仙台・熊本)の幼年学校では英語を教えるようになったようですが、時すでに遅し。

珍しい(?)花咲いた3つ。

珍しい(?)花が咲いたというニュースを最近連続して見たので、何となく書きたくなりました。

1つ目の花、ショクダイオオコンニャク
京都府立植物園、約30年栽培して初の巨大花開花だそう。
昨日今日2日間ほどしか開花は見られないそうで、土曜日の本日は現地90分待ちの列ができたとか?見に行きたかったな~


公式Twitterは深夜も更新したり、興奮が伝わってきます。
公式ホームページのスクショ。文字に手作り感が漂っているのが何かいい。
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2つ目の花、リュウゼツラン。


花が咲くまで71年間!100年に1度の花を見ることができて本当によかったですねえ。

3つ目の花、双頭蓮。
1つの茎に2つの蓮の花が咲いたとか。数年に1度あるそうですが、それなりに珍しいし、今回は唐招提寺の蓮だそうで、見られたらありがたい感じがするでしょうね~
www.yomiuri.co.jp

コロナとか東京オリンピック開催するの?!とか、何ともいえない雰囲気の世間がぱっと晴れるような”花”がもっと咲いてほしいですね。

ネオウイルス学

pp.4-5
 ウイルス学の歴史は19世紀の末に始まりましたが、これまでは生物に病気をもたらす「病原体」としての側面に研究が偏っていました。そもそもウイルスという名称自体、「毒」を意味するラテン語のvirusに由来しています。
 しかし、私たちウイルス研究者の間では、ウイルスが寄生する「宿主」に必ずしも悪い影響だけを与える存在ではないことが知られてきました。病原体としてインフルエンザウイルスやエボラウイルスを長年研究してきた私自身、以前から「病気を起こさないウイルス」に興味を抱いていた一人です。
 そこで私たちは、ウイルスの機能メカニズムをより深く追求し、生物の生命活動や生態系におよぼす影響、自然界におけるウイルスの存在意義を解明する、新しいプロジェクトを2016年に立ち上げました。それが「ネオウイルス学」です。

ウイルスは病原体であり、ヒトをはじめとする動物や植物に害をなすそれらのものを研究するのがウイルス研究(ウイルス学)だと思っていましたが、ウイルスは必ずしも宿主に害をなすものばかりではないということを、本書を読んで知りました。
ではウイルスは一体何をしているのか、そういったことを調べることで、”役に立つ”ウイルスを見つけたり、生命活動の理解を深めたり、生命の起源の謎を追究する方向性があるんですね。
ネオウイルス学、こんなんあるよ!面白いよ!と各研究者が書いている本です。

サラ金の歴史―消費者金融と日本社会

サラ金について経済史(金融史)の立場からまとめた本です。
広範な資料を豊富に使い、類のないユニークな内容になっています。超おすすめ本です。
家計におけるジェンダーの視点やら、サラ金の仕事には感情労働の側面があるとか、縦横無尽な書き方がすごかったです。
(従来説と異なり)友人知人を対象にした「素人高利貸」をサラ金の源流と位置づけた本書は、最後に、近年SNSを利用して規制の埒外にある「素人高利貸」が再び出現しているという話題にたどり着いています。

p.304
 本書は、サラ金業者の非人道性を告発・暴露するというより、その経済的・経営的な合理性を、あくまでも内在的に理解しようと努めてきた。いかに強欲で異常に見えても、人間の経済的な営みである以上、その行動はある程度までは合理的に説明できるはずである。それが、本書の基本的な立場だった。

p.318
 経済合理性や技術革新がもたらすものは、経済成長や生活水準の向上だけではない。経済合理的であるがゆえに引き起こされる問題を歴史として跡づけていくことは、経済史の勉強を生涯の仕事と思い定めた自分にとって、意味のある宿題であるように思われた。

平成の経営

少し前に読んだ、
lionus.hatenablog.jp
と同じ伊丹先生によるご本です。
『コロナショック…』を読んだ時には「ちょっと日本買いかぶり気味じゃない?と思う面もありましたが、」と書いていましたが、
今回『平成の経営』で日本企業の特徴と、そこから生み出される独特な強みについてさまざまに論じられているのを読むと、ああこの本で主張されていたことの延長線上にある話なのね、と改めて納得できるところがありました。
いくつも「なるほど」「たしかに」と思いながら読めるところがあったのですが、中でも失業率、(従業員)一人当たり人件費、労働生産性労働分配率(企業が生み出す付加価値の中から人件費として従業員に分配される割合)の推移(バブル崩壊後~リーマンショック東日本大震災~近年)の分析から、

p.66
つまりは、一人当たり賃金を下げて、しかし雇用は確保するといういわばワークシェアリングを国全体でやっていた

p.68
雇用を拡大しながらも一人当たり人件費を下落させ、人件費総額を微増に抑えることで利益を捻出する、それを資金源にある程度の投資も行なうという形で自己防衛を行なった

と書いています。
バブル崩壊リーマンショックといった危機時にも雇用は極力守るが、給与の支払いを少なくし(残業させないなど労働時間を短くする等で)、なんとか乗り切ろうとするという感じです。
また、(従業員への)労働分配率については危機の時にかえって上がるということも示していて、そこから、景気が悪くなって儲かっていなくても給料をあまり下げないし、ましてや解雇するなんてこともなかなかしないということの表われだと書いてもおられます。

こういう話は、以前読んだ白川元日銀総裁のご本でも読んだな~と思いだしましたが、
lionus.hatenablog.jp
そこでは

名目賃金には下方硬直性が存在すると言われているが,日本の賃金データを検証すると,90年代末頃から硬直性は観察されなくなっている。不況期の日本で失業率の上昇が小幅にとどまった理由は,前述のようにコア労働者が賃金の抑制に応じ,企業経営者が雇用確保を優先した結果である。ただし,欧米諸国と異なり失業率の大幅な上昇は回避できたが,その代償として,賃金下落に伴う物価の緩やかな下落に直面することになった。

とあり、経営者が雇用確保と引き換えに賃金の抑制を労働者に求めた結果、失業率が上がらなかった代わりに賃金が下落した(そして物価も下落した)という1対1の関係でしか書かれていなくて、
危機の時にかえって従業員への利益分配率が上がる(=危機の時も従業員をできるだけ守る?)という視点は入っていなかったので、日本的経営とはどんなものかという問いがベースにある伊丹先生とは角度が違うなと感じました。

本書を読むと、平成30年間の日本企業をめぐるあれこれについて振り返ることができるだけでなく、日本的経営ってそれなりの合理性をもっていた(いる)わけで、無闇矢鱈に”今までのやり方”をかなぐり捨てることもないんじゃない?と感じました。

「文藝春秋」にみる平成史

2021年1月にお亡くなりになった半藤一利氏が雑誌『文藝春秋』から31篇を選び、全文掲載している本です。
昭和に生まれて、現在を生きている自分にとって「平成」はその始まりから終わりまでを(物心ついた状態で)すべて経験しているということで、掲載されている内容は、”歴史”というより、ああそんなことあったなあという思い出というか感慨をもって読めました。
同じようなコンセプトで「昭和史」も出ているようですが、そちらは3巻に分かれているようですね。そりゃそうか。そのくらいになるか。近いうちにそちらも読んでみたいものです。